後漢書卷八十七 杜欒劉李劉謝列傳第四十七 謝弼

謝弼

  • 謝弼、字は輔宣。東郡武陽の人。建寧二年、有道の士として郎中に挙げられた。青蛇の出現・大風の怪異を機に上封事し、蛇龍の孽は皇極不建の徴であり、近臣の陰謀を疑い、竇太后の幽閉を「父子兄弟罪不相及」の書経の理に反すると諫め、太后の合祭を求めた。
  • 陳蕃の冤罪も訴え、その門生故吏の禁錮解除を求め、当時の四公(太尉・司徒・太傅・司空)のうち司空劉寵を除き他は「素餐(無為徒食)」であると痛烈に批判、王暢・李膺の起用を求めた。この直言が宦官の恨みを買い、広陵府丞に左遷ののち帰家、中常侍曹節の甥紹に別件で捕らえられ獄死した。初平二年、司隷校尉趙謙がその忠節を訟え、紹を斬って報いた。

  • 「鄧不明辟、梁不損陵。慊慊欒杜、諷辭以興。黄寇方熾、子竒有識。武謀允臧、瑜亦協志。弼忤宦情、雲犯時忌。成仁喪己、同方殊事」(鄧太后は政を安帝に還さず、梁冀は陵墓の限度を守らなかった。欒巴・杜根は憤り、諷言を発した。黄巾の乱が熾んになる中、劉陶は先見の明を持っていた。竇武の謀は真であり、劉瑜もその志に協力した。謝弼は宦官の意向に逆らい、李雲は時の忌避に触れた。皆、仁を成して身を喪ったが、道を同じくしつつ事は異なった、の意)。