後漢書卷八十八 虞傅蓋臧列傳第四十八 虞詡

虞詡

  • 虞詡、字は升卿。陳国武平の人。祖父経は獄吏として寛恕な裁判を旨とし、前漢の于公・于定国父子の故事を引いて詡に「升卿」の字を与えた。十二歳で尚書に通じ、祖母への孝養のため出仕を辞退し、祖母没後に太尉李脩府の郎中となった。
  • 永初四年、羌胡反乱により涼州放棄が公卿間で議論された際、詡は李脩に「涼州を棄てれば三輔が国境となり、園陵が外に晒される。関西は名将を出す土地であり、羌胡が三輔に迫らないのは涼州が背後にあるからだ」と説き、棄涼州論を覆させた。四府に西州の豪傑を掾属として登用させる策も提案し実現させた。
  • 朝歌の賊寧季らの反乱鎮圧のため朝歌長となり、「盤根錯節に遭わねば利器の真価は分からない」と赴任、募兵の三科(攻劫の罪・傷害窃盗の罪・喪服中の無頼を区別)を設けて計略を用い、貧者に賊の衣に目印を縫わせて摘発し賊を壊滅させた。
  • 武都太守として羌の大軍に対し、進軍を装いつつ竈の数を日々倍増させる兵法(孫臏の減竈法の逆)で敵を欺き、少数の兵で万余の羌軍を撃退。赤亭での攻囲戦でも弩を使い分ける計略や、衣服を変えて兵の多寡を誤認させる計で敵を潰走させた。運糧路の川筋を開削して物流を改善し、郡戸を万から四万余に増やし、塩米の価格を十分の一に下げるなど善政を行った。
  • 司隷校尉として太傅馮石・太尉劉熹・中常侍程璜らを弾劾し「苛刻」と称されたが、法禁を「俗の堤防」と位置づけ、史魚の尸諫の故事を引いて自訟した。中常侍張防の不正を繰り返し摘発したため誣告され、自ら廷尉に繋がれる挙に出て「楊震の轍を踏みたくない」と訴え、宦官孫程らの助力で救われた。
  • 尚書僕射として、貧民への罰金流用(義銭)の弊を糺し、寧陽主簿の冤訴を正しく処理し、台郎の任用の地域偏りを是正するなど多くの上言が用いられた。九度の譴責・三度の刑罰を受けても剛正を貫き通し、老いてなおその性は変わらなかった。臨終、子の恭に「朝歌長のとき殺した賊数百人の中には冤罪もあったろう」と悔いを語った。