生涯
- 王龔、字は伯宗。山陽郡高平の豪族の家。孝廉から青州刺史となり貪濁の二千石数人を弾劾、安帝に嘉されて尚書に召された。司隷校尉・汝南太守を歴任し、黄憲・陳蕃ら郡人を積極的に引き立てた(陳蕃には当初素っ気なくされ怒ったが、袁閬の諫めで態度を改め厚遇した)。
- 太僕・太常・司空を経て太尉。宦官の専権を憂い放斥を求める上書をしたところ宦官らに讒言され「速やかに自ら実状を申せ」と命じられたが、旧掾李固(大将軍梁商の従事中郎)が梁商に「王公は堅貞の操により俗を犯し讒佞に構陥された」と訴え救われた。在位五年、老病を理由に致仕し家で没した。子は暢。
論(張晧・王龔について)
- 張晧・王龔は「推士(人材登用に努めた者)」と称され、賢人を推挙する情に厚かったと評す。柳下惠が臧文仲に抑えられた例、淳于長が翟方進に推された例を引き、賢を挙げることの利は広くとも、それを実行する人は少ないと結ぶ。
王暢
- 暢、字は叔茂。清廉実直で知られ、大将軍梁商の招きで茂才に挙げられ尚書令・司隷校尉・漁陽太守を歴任、太尉陳蕃の推薦で尚書に復した後、南陽太守として厳しく豪族の不正を摘発した。功曹張敞が「五教は寛を旨とする」と湯武の故事を引いて過度な厳格を諫めると、暢はこれを容れて寛政に転じた。
- 同郡の劉表(当時十七歳)が「奢は上を僭さず、儉は下を逼らず」の中庸を説いて暢の質素すぎる姿勢を諫めた逸話も伝わる。長楽衛尉を経て建寧元年司空となり数月で水害により免官、翌年家で没した。子の謙は大将軍何進の長史、孫の粲(王粲)は文才で知られた(蔡邕に激賞された逸話が伝わる)。