生涯
- 种暠、字は景伯。河南郡洛陽の人、仲山甫の後裔。父の遺財三千万を宗族・貧者に分け与えた。県門下史から河南尹田歆の甥王諶に見出され(「山沢に必ずしも異士なし」の逸話)主簿に抜擢、孝廉・太尉府を経て侍御史となった。
- 八使(杜喬・周挙ら)の摘発が梁冀ら権勢の妨害で滞る中、暠は独自に八使の推挙した蜀郡太守劉宣らの罪を弾劾し、四府に近臣の親族の不正を糾察させる制度改革を進言した。太子監督の任では、中常侍高梵が詔なく太子を連れ出そうとした際、剣を手に車を阻んで正当性を質し、太傅杜喬に感嘆された。
- 益州刺史として遠夷を懐柔し、白狼・槃木ら諸国を服属させた。永昌太守の黄金製の蛇を梁冀に献じた不正を摘発したが、梁冀に恨まれ、巴郡の反乱鎮圧の失敗を口実に李固の上疏で救われる形で免官にとどまった。
- のち梁州刺史として羌の懐柔に成功し百姓の請願で留任、漢陽太守・使匈奴中郎将・遼東太守を歴任し威信で異民族を服させた。度遼将軍として羌胡・亀茲・莎車・烏孫の帰順を得、辺境を平穏に保った。司徒に至り橋玄・皇甫規らの名臣を推挙し、在位三年、六十一歳で薨じた。匈奴も哀悼したという。
种岱・种拂・种邵
- 子の岱、字は公祖。学を好み志を養い、公府の招きに応じず病没した。李固の子燮が岱の死を惜しみ加礼を求める上書をしたが、朝廷は聞き入れなかった。
- 弟の拂、字は頴伯。宛令として吏の遊興を戒め善政で知られ、光禄大夫を経て司空となったが、李傕・郭汜の乱で長安が陥落する中、剣を揮い「国の大臣として兵刃を宮に向けさせるとは」と戦って死んだ。
- 拂の子邵、字は申甫。何進による宦官誅殺の企てで并州牧董卓への停止命令を伝える使者となったが董卓は従わず、邵は詔を称え軍士を叱咤して董卓を退かせた。獻帝即位後、侍中となったが董卓に忌まれ左遷され、益涼二州刺史となる直前に父拂の戦死を知り赴任せず、馬騰・韓遂らとともに李傕・郭汜討伐に加わり、長平観下の戦いで戦死した。