生涯
- 陳球、字は伯真。下邳郡淮浦の人。儒学に通じ律令に長け、陽嘉中に孝廉、繁陽令として太守の賄賂要求を拒み督郵の逐官命令にも屈しなかった。侍御史を経て、桂陽の賊李研らの反乱鎮圧のため零陵太守となり、州兵の反乱にも城を死守して撃退した。
- 魏郡太守・将作大匠・南陽太守を歴任し、豪右の摘発で権勢家に恨まれ廷尉に召されたが赦により帰郷、再び廷尉となった。熹平元年、竇太后崩御に際し、宦官らが貴人の礼で薄葬しようとしたのに対し、廷議で「皇太后は聡明な母儀の徳があり、桓帝に配食すべきだ」と正論を述べ、多くの反対を押し切って合葬を実現させた。
- 司空・廷尉・太常・太尉を歴任し、光和元年、永楽少府として司徒劉郃と密かに宦官誅殺を謀ったが、密告により発覚し策免、下獄して死んだ。享年六十二。子孫(瑀・琮・珪・登ら)も知名の士となった(珪の子登〈陳元龍〉は劉備に「国士」と評された逸話が付記される)。
贊
- 「安儲遭譛、張卿有請。龔紏便佞、以直為𤯝。二子過正、埋車堙井。种公自微、臨官以威。陳球專議、桓思同歸」(安帝の廃太子は讒言に遭い、張晧が救いを請うた。王龔は佞人を糾したことで直言ゆえに咎めを受けた。張綱・王暢の二子は正しさが過ぎ、車輪を埋め井戸を塞ぐほど徹底した。种暠は微賤より起こり官に臨んでは威をもって治めた。陳球は独り正論を議し、桓帝の恩に報いる思いは竇太后への配食の議と軌を一にした、の意)。