後漢書卷八十六 張王种陳列傳第四十六 張晧

生涯

  • 張晧、字は叔明。犍為郡武陽の人。六世祖の張良は高帝の太子少傅・留侯。晧は京師に遊学し、永元中に州郡に出仕、大将軍鄧騭府を経て尚書僕射を八年務め、彭城相となった。
  • 永寧元年、廷尉に召され、法家出身でないながら刑断に心を尽くし、多くの疑獄を尚書と論じて公正な判断を得た。安帝が皇太子を廃して済陰王とした際、太常桓焉・太僕来歴とともに廷争したが果たせず、退いて上疏し、江充の讒言で戻太子を死に追いやった前漢の悲劇を引いて皇太子の保傅を厚くすべきと説いたが、これも省みられなかった。
  • 順帝即位後、司空となり多くの賢士を推挙し「推士」と称えられた。清河の趙騰が朝政を批判して連座者八十余人が誹謗の重罪に問われた際、晧は「堯舜は敢諫の鼓を立て、三王は誹謗の木を樹てた」と諫め、順帝は趙騰の死罪を一等減じた。陽嘉元年、再び廷尉となりその年、八十三歳で官のまま没した。

張綱

  • 晧の子綱、字は文紀。公子の身でありながら布衣の節を守り、孝廉に応じず司徒の招きで御史となった。順帝が宦官を放縦させる中、綱は「穢悪満朝、身を投げ出して国難を除かねば生きる甲斐がない」と上書し、恭倹の帝徳を範に返すよう諫めた。
  • 漢安元年、八使が風俗巡察に派遣された際、他の使者が任地に赴く中、綱だけは洛陽都亭で車輪を埋め「豺狼が路に当たっているのに、どうして狐狸を問えようか」と述べ、大将軍梁冀・河南尹梁不疑の外戚専横を「無君の心十五事」として弾劾する上奏を行い、京師を震撼させた。梁氏の権勢下、順帝も心では正しさを認めつつ用いなかった。
  • 広陵の賊張嬰らが数万の衆で州郡を荒らして十余年、梁冀は綱を広陵太守に推挙し陥れようとしたが、綱は単身で任地に赴き、張嬰の陣営に直接乗り込んで恩義と利害(強弱の判断・順逆の道理・忠孝の道)を説き、張嬰を感涙させ帰降させた。単車で嬰の陣営に入り酒宴を開いて部衆を解散させ、住居・田畑を世話し人心を得た。
  • 論功に際し梁冀の妨害で正式な封は成らなかったが、天子は美挙を嘉した。在郡一年、三十六歳で没し、嬰ら五百余人が喪服を着け負土して墳を築いた。詔で「未だ顕爵に至らず不幸にも早逝した」と惜しまれ、子の続が郎中に拝された。