後漢書卷八十三 周黄徐姜申屠列傳第四十三 周燮

出処進退についての序

  • 易に「君子の道は或いは出で或いは処り、或いは黙し或いは語る」とあり、孔子も蘧伯玉を「邦に道あれば仕え、道なければ巻いて懐に蔵す」と称えた。出処の別こそ君子が誠を保つ所以である。
  • 出づれば足を濡らし垢をこうむっても身をもって時に効し、止まれば窮しても道を守り国を導く――その一例として太原の閔仲叔(貢、字仲叔)を挙げる。周党の清潔にも劣らぬ節士で、菽(豆)と水を口にし、周党が贈った生蒜すら受けたが食べなかった。建武中、司徒侯霸に招かれたが政事に関わらせぬまま労役のみだったことに憤り、辞して去った。博士に召されても応ぜず、安邑で老病貧窮の中、豚肝一片すら屠者に嫌われる暮らしをし、安邑令の計らいを知ると「口腹のために県令に迷惑をかけるのか」と嘆いて立ち去り、沛で天寿を全うした。
  • 同郷の荀恁(字君大)も清節を修め、匈奴の侵入時にもその名節ゆえ荀氏の里は襲われず、光武帝の徴にも病と称して応ぜず、東平王蒼に辟されてようやく仕え、驃騎将軍の礼法の厳しさゆえに来仕したと明帝に答えた。
  • 安陽の魏桓(字仲英)も度々徴されたが、後宮の数・厩馬の数・権豪の存在が変わらぬ限り諫めても無益と悟り隠棲を貫いた。これらの人物は「詭時審己(時に逆らい己を審らかにして道を成す)」の生き方を体現したとして、以下にその風流を記す。

周燮

  • 周燮、字は彦祖。汝南郡安城の人。決曹掾周燕の後裔。生まれつき顎が曲がり容貌が醜く、母は棄てようとしたが父が「賢聖に異貌の者は多い。我が宗を興すのはこの子だ」と止め養った。幼くして廉譲を知り、十歳で詩・論語に通じ、長じては礼・易に専心し、非聖の書を読まず、賀問の交遊を好まなかった。
  • 岡の畔に先人の草廬があり、自ら耕さぬ物は食べぬ質素な暮らしを守り、郷党でも滅多に姿を見せなかった。孝廉・賢良方正・特徴すべて病と称して辞退。延光二年、安帝が玄纁の礼物で招いた際、宗族に「なぜ東岡の陂を守るのか」と勧められると「巣穴に隠れる隠者の跡を追えぬ以上、せめて時を見て動く(亨る)べきだ」と潁川陽城まで赴いて敬意だけ示し辞して帰った。
  • 南陽の馮良(字君郎)も同様に招きに応じる形だけ示して辞退した。良は元は微賤の県吏であったが、督郵を迎える役を恥じて車馬・衣冠を毀ち逃亡、犍為で杜撫に学び、妻子が死んだと誤認して喪に服すほど徹底して隠棲した。二人とも七十余歳で没した。