生涯と買官
- 寔の従兄烈は北州で重名を博し郡守・九卿を歴任した。靈帝の代、鴻都門で官爵が公然と売買されるようになり、烈は傅母を通じて銭五百万を納め司徒の位を得た。
- 任官の日、天子臨軒の場で靈帝が親幸の者に「もっと惜しめば千万まで釣り上げられたのに」と漏らすと、程夫人が「崔公は冀州の名士、買官などするはずがない。私の口利きで安く済んだのだ」と応じた。この逸話が広まり烈の名声は衰えた。
- 烈が子の鈞に「私が三公に就いたことを世はどう評するか」と問うと、鈞は「銅臭が疑われている」と率直に答え、武官装束のまま逃げ出した鈞を烈は「死卒、父に打たれて逃げるとは孝行か」と罵ったが、鈞は「舜は小杖は受け大杖は逃げた(父を不義に陥れぬため)」と答え、烈は恥じて咎めなかった。
- 烈はのち太尉となった。鈞は英豪と交わり西河太守となり、献帝初め袁紹とともに挙兵、董卓により父烈は郿の獄に禁錮された(鋃鐺の鉄鎖につながれた)。董卓誅殺後、烈は城門校尉に復したが、李傕の長安侵入の乱で兵に殺された。詩・書・教・頌など四篇を著した。
論
- 崔氏は代々美才があり典籍に沈淪した儒家の文林であった。駰・瑗は貴戚に心を尽くしつつも正しさを最後まで貫いた点で、単なる進取の徒とは異なると評す。李固と瑗の交誼、崔寔『政論』の当世治乱への洞察は鼂錯にも劣らないと称える。
贊
- 「崔為文宗、世禪雕龍。建新恥潔、摧志求容。永矣長岑、于遼之陰。不有直道、曷取泥沈。瑗不言祿、亦離寃辱。子真持論、感起昏俗」(崔氏は代々文章の宗として名を伝えた。篆は建新の職を恥じつつも節を曲げず、駰は遼東の地で長く不遇であったが、直道なくして泥沈は免れなかったであろう。瑗は禄を語らずして冤罪に遭い、寔の『政論』は昏俗を感じ起こさせるものであった、の意)。