生涯と『政論』
- 瑗の子寔、字は子真(一名台、字元始)。沈静で典籍を好み、父の喪に服し三公の招きにも応じなかった。桓帝初、公卿郡国が至孝独行の士を挙げた際、郡に挙げられ病により対策せず郎に除せられた。
- 政体に明るく吏才があり、当世の急務数十条を論じた『政論』を著した。仲長統はこれを「凡そ人主たる者はこれを座右に置くべし」と称した。その大要は次の通り。
- 尭舜・湯武の治も皋陶・伊尹らの賢佐に頼ったこと、人主が承平に慣れ弊政に気づかず賢を退けることの害を説く。
- 漢興以来三百五十余年、政令は弛み風俗は彫弊しており、必ずしも尭舜の道を体しなくとも、時に応じて破れを繕い傾きを支える権制(臨機の法)を布くべきだと説く。孔子が葉公・哀公・景公にそれぞれ異なる政を説いた例を引く。
- 俗人は旧文にこだわり権制を解せず、正論を唱える者はかえって非難される(賈誼が絳侯・灌嬰に排され、屈原が讒言に苦しんだ例)。度力量徳の上で、純粋な聖王の法(八代の道)が難しければ覇政(斉桓・晋文の権変)を参用すべきと説く。
- 孝宣帝は厳刑峻法で姦軌を破り中興を成したが、元帝の寛政が権威を失墜させ漢室衰退の因となったと評し、孔子が管仲の功を斉桓・晋文とともに称えたことを引き、権変で時弊を救う理を説く。
- 高祖の九章律・肉刑の厳しさに対し文帝が肉刑を廃したが、実は笞刑がかえって死に至りやすく、景帝が笞数を減らしてようやく生存率が上がった経緯を挙げ、「文帝は実は刑を重くしたのであり、軽くしたのではない」と論じ、厳しさによってこそ平らかさが得られると説く。
- 稷契・伊呂のような賢佐を得て五帝・三王に則り、旧俗を洗い五等の爵と井田の制を復すべきだが、それが難しければ多く累となるだけだと結ぶ。
- 太尉袁湯・大将軍梁冀府の招きには応じなかったが、大司農羊傅・少府何豹の推薦で議郎となり、大将軍梁冀の司馬として辺韶・延篤らと東観で著作、五原太守として麻枲の栽培・紡績を教え民の防寒に貢献した。
- 胡虜の侵入が頻発する中、士馬を整え烽候を厳にし辺境防備で最高の評価を得た。病により議郎に復し、五経の校定に参与、梁冀誅殺の際は旧吏として免官・禁錮された。のち鮮卑の侵入対策として遼東太守に挙げられたが、赴任途上で母が病没し喪に服すため帰郷、母の淑徳を偲んだ。
- 服喪明けに尚書に召されたが世の乱を見て病と称し数月で免職。父の葬儀に田宅を売って冢塋・碑を建て、その後は資産が尽き酒の醸造販売で生計を立てたが、当世はこれを譏った。建寧中に病没し、家は貧しく殯もできぬほどだったが、光禄勲楊賜らが棺槨・葬具を整えた。碑論・箴銘・答七言など十五篇を著した。