生涯
- 駰の中子瑗、字は子玉。早くに父を失ったが学を好み父の業を継ぎ、十八歳で京師に出て侍中賈逵に学び天官暦数・京房易伝の六日七分説に通じ、馬融・張衡と親交した。
- 兄章が州人に殺されると自ら仇を討って亡命、赦により帰郷し兄弟で数十年同居し郷里を感化した。四十余歳で郡吏となり獄掾に礼を学ぶなど、逆境でも学を怠らなかった。
- 度遼将軍鄧遵、車騎将軍閻顕の府に辟されたが、閻顕が安帝廃太子(済陰王)を廃し北郷侯を立てた不正を見抜き、長史陳禅に廃立の正当性を説いたが実行されなかった。北郷侯が薨じ孫程が済陰王を立てて順帝となると、閻顕兄弟は誅されたが、瑗も連座を疑われ免職となった(門生蘇祗が瑗の関与を訴えようとしたが瑗自ら止めた)。
- 大将軍梁商に召され、のち茂才に挙げられて汲県令となり数百頃の稲田を開き民に慕われた。済北相に転じ、太山太守李固と文雅を通じ厚誼を結んだが、八使の杜喬に贓罪を奏され廷尉に召喚、上書して自ら訟え理を得たが病没した。享年六十六。
- 臨終、子の寔に「人は天地の気を稟けて生まれ、死ねば精は天に、骨は地に還る。故郷に葬る必要はない」と命じ、遺言通り洛陽に葬られた。文辞に優れ賦・碑・銘・箴・頌・七蘇など五十七篇を著した。愛士好客で家に蓄えなく、当世に清廉と称された。