後漢書卷七十三 朱樂何列傳第三十三 樂恢

樂恢

  • 楽恢、字は伯奇、京兆長陵の人。父の楽親が県令に罪を得て殺されかけた際、十一歳の楽恢は寺門に伏して昼夜泣き続け、令はこれに感じて父を釈放した。長じて経学を好み、博士焦永に師事し、焦永が事に坐して問われた際、他の弟子は連座したが楽恢だけは法に触れず清白を保った。廉直な性格で、権貴とは進んで交わらず、信陽侯陰就の招きにも応じなかった。
  • 郡吏となり、太守が法に坐して誅された際、他の者は憚って弔わなかったが楽恢だけは奔喪して服し、そのため罪に問われた。のち功曹となり、推挙は公正を旨とし、同郡の楊政の讒言を受けても後にその子を孝廉に挙げるほど恨みを持たなかった。司空牟融府に辟された際、蜀郡太守第五倫が牟融に代わって司空となると、同郡であることを理由に自ら退き、潁川の杜安を推薦した。
  • 議郎に召され、竇憲の匈奴出征に際し何度も上書して諫争し、その忠を称えられた。尚書僕射となり、竇憲と親しい河南尹王調・洛陽令李阜を弾劾するなど権貴を憚らず、竇憲の弟夏陽侯瓌の訪問にも応じなかった。竇憲兄弟の専横を憂え、妻の忠告にも「素餐(無為徒食)に甘んじて朝廷に立てようか」と答え、上疏して「先帝は早く崩じ、陛下はまだ若く大業を継がれたばかり、外戚が王室を専断すべきでない、四舅(竇憲・篤・景・瓌)は義をもって自ら身を引けば爵位を永く保てる」と諫めたが、上奏は聞き入れられなかった。
  • 竇太后臨朝、和帝がまだ親政できない状況で意見が容れられぬことを悟り、病と称して辞職を願い出、任城の郭均・成陽の高鳳を推薦して騎都尉を拝命したが、辞退の上書で「政が大夫にあるのは孔子が憎んだところ、世卿の専横は春秋の戒め、聖人の言は虚しくない」と外戚専権を重ねて批判し、印綬を返上して郷里に帰った。竇憲はこれを恨み州郡を圧迫させ、楽恢はついに毒を仰いで死んだ。門人数百人がその柩を送り、世はこれを深く悼んだ。竇氏誅滅後、和帝が親政を始めると門生何融らが楽恢の忠節を上書し、子の楽已が郎中に任じられた。