後漢書卷七十三 朱樂何列傳第三十三 朱暉
朱暉、字は文季、南陽宛の人。代々の名門に生まれ、若くして剛直・重義の気性で知られた。臨淮太守・太山太守・尚書令などを歴任し、章帝への直言で獄に繋がれてもなお節を曲げず、旧友の遺族を厚く支援する義烈で称えられた。孫の朱穆も家風を継ぎ、冀州刺史として宦官の不正を弾劾する剛直の士となった。
朱暉
- 朱暉、字は文季、南陽宛の人、代々の名門。早くに父を失い、十三歳の時、王莽末の乱で外戚の家族と共に宛城に逃げ込む途中、賊に襲われ婦女や衣物を奪われかけたが、朱暉は剣を抜いて「財物は取ってよいが母たちの衣は渡さぬ、今日が朱暉の死に日だ」と迫り、賊はその若さと気概を笑って去った。
- 光武帝は父の朱岑と長安で共に学んだ旧知の間柄で、即位後に朱岑の消息を尋ねると既に没していたため朱暉を郎に召したが、朱暉は太学で学業を終えることを選んだ。厳格で礼を重んじ、儒者に高く評価された。永平初め、顕宗の舅の新陽侯陰就が慕って訪れたが会わず、贈物も受けなかった。陰就は「志士だ、その節を奪うな」と嘆じた。
- 郡吏となった際、太守阮況が朱暉の婢を求めたが拒み、阮況の死後は逆に厚く弔いの品を贈った。理由を問われ「生前に求めを断ったのは財貨で君を汚すことを恐れたため、今贈るのは愛惜がないことを示すためだ」と答えた。
- 驃騎将軍東平王蒼に辟され、正月朝賀の際、少府の璧が期限までに用意できず困っていた蒼のために、朱暉が機転を利かせ陰就配下の主簿から璧を借り受けて蒼に献じた逸話(藺相如の完璧帰趙の故事になぞらえて称された)が伝わる。帝はこれを聞いて壮とし、衛士令に任じ、のち臨淮太守に遷った。節概を重んじ、義によって恩讐に報いる者を助け、不義の囚人には厳しく臨んだため、「彊直自遂 南陽朱季 吏畏其威 人懐其惠」と歌われた。
- 数年後、法に坐して免ぜられた。剛直な性格ゆえ上役に忌まれることが多く、臨淮を去って野に隠棲し、布衣蔬食で暮らした。建初中、南陽の大飢饉に際し家財をことごとく分け宗族・郷里の貧窮者を救った。旧友の張堪に妻子を託され、堪の死後、その困窮する妻子を厚く支援した逸話や、早世した友人陳揖の遺児陳友を、自分の子より優先して推薦した逸話が伝わり、その義烈は当時から称えられた。
- 元和中、粛宗(章帝)の巡狩の際に召され尚書僕射、のち太山太守に遷った。上疏して便宜の密事を進言し嘉納された。当時、穀物価格が高騰し財政が逼迫していた折、尚書張林が銭を廃して布帛による租税や、塩の専売、交阯・益州との交易利益の収公(武帝時代の均輸法)を提案したが、朱暉は「王制では天子・諸侯・食禄の家は民と利を争わぬもの」として強く反対した。帝は当初これを容れず張林の議を採用しようとしたが、朱暉は独り重ねて反論し、帝の怒りを買って自ら獄に繋がれた。三日後、帝は詔で釈放したが、朱暉は病と称して議に署名することを拒み続け、諸尚書は恐れたが朱暉は「八十の齢で機密に与った恩に死をもって報いる、耳目を塞いで沈黙するほかない」と貫き、ついに帝の怒りは解け、太医・太官の慰問を受けた。
- のち尚書令に遷り、老病により辞して騎都尉を拝命。和帝即位後、竇憲の匈奴北征にも上疏して諫めたが、まもなく病没した。子の朱頡は儒術を修め陳相に至り、その子が朱穆である。
朱穆(朱暉の孫)
- 朱穆、字は公叔。五歳で孝行の評判があり、壮年には学問に没頭するあまり衣冠を乱すほどであったが、ますます精進した。孝廉に挙げられ、順帝末、江淮の盗賊が起こると大将軍梁冀に「文武を兼ねた奇士」として推薦され、兵事を掌る任を得た。
- 桓帝即位後、順烈太后臨朝の時期、朱穆は梁冀の権勢が王室を支えることを望み、災異を推して奏記し戒めた。翌年の暦象の凶兆を挙げ、忠正の臣を重んじ姑息な佞臣を退け、皇帝のために師傅・侍講を選ぶべきこと、种暠・欒巴らの登用を進言し、実際に容れられた。のち高第で侍御史に挙げられ、桓帝の辟雍での儀礼の際、虎賁が天子の器を粗末に扱ったのを弾劾するなど、事に臨んで動じない人物として評された。
- 同郡の隠者趙康を師と仰ぎ、その死には師の礼で服喪するなど、徳を重んじる姿勢が当時に服された。世の軽薄を憂え『崇厚論』を著し、要旨は次の通り。「大道が廃れて久しい、道とは天下を一とするもので、道に背けば心に恥が生じる。仁義は道徳が失われた後に興り、礼法は淳朴が散じた後に興る――ゆえに道徳から見れば仁義は薄く、淳朴から見れば礼法は賊である。孔子が旧友原壌への態度を変えなかった故事、楚荘王が絶纓の宴で臣下の失礼を咎めなかった故事、老子の『大丈夫は厚きに処り薄きに処らず』の言、馬援が甥に『人の過ちを聞いても口にするな』と誡めた例、邴吉・張安世(張子孺)の寛容な政治を挙げ、これらは皆『厚』の徳の実践である。しかるに近頃は人の短を挙げて長を折り、悪を貶して善をも共に伐つ風潮があり、これは君子の道に背くだけでなく身を危うくする禍となる。田蚡・淳于長のような権勢家でさえ賢を推挙できなかった例、禽息・史魚のように命を賭して諌めた例を対比し、世が敦厚であれば小人も正を守るが、世が薄ければ君子でさえ義を貫けなくなる、と憂える。結びに、真に孔子・楚荘王・老子・馬援に倣い、邴吉・張安世の弘裕を貴んで世俗の誹謗を賤しめば、名は不朽となろう、と説いた。」
- また『絶交論』も著し、時流を矯す論であった(要旨は、無節操な交遊の弊を戒め、公私の交わりを正しく分けるべきだとするもので、劉伯宗との絶交の詩文なども付随して伝わる)。
- 梁冀が驕暴を改めなかったため、朱穆はかつての属吏として災禍を恐れつつも重ねて奏記し諫めた。「古の明君には輔徳の臣と規諫の官があり、器物にまで銘を刻んで戒めとした。将軍は申伯のごとき至尊の地位にあり、一日善を行えば天下は仁に帰し、一日悪を行えば四海が傾く」と説き、当時の官人の窮乏・水害・蝗害による財政逼迫、地方官の苛斂誅求が将軍の名に帰せられていること、秦の煩苛な政が陳勝の反乱を招いた例、質帝時代の馬免の乱の兆しを引き、将軍自ら第宅・園池の費用を減じ、賄賂を拒み、賢才を登用して憲度を張るべきだと諫めたが、梁冀は容れず、むしろ左右への贈賄や宦官との結託を強めた。朱穆はさらに奏記したが梁冀は「では私に善いところは一つもないのか」と答えるのみで罪には問わなかった。
- 永興元年、黄河の氾濫で数十万戸が被災し盗賊の多かった冀州の刺史に朱穆が抜擢された。宦官三人が檄をもって謁見を求めたのを拒み、赴任すると威令を張って賊魁を誅し、権貴の不正も容赦なく弾劾したため、自殺者も出た。宦官趙忠が父の葬儀に璵璠・玉匣・偶人など天子の礼を僭用したのを摘発し、墓を暴いて棺を開き遺体を出して家属を収監した。桓帝は激怒し、朱穆を廷尉に召還し左校(労役刑)に処した。
- 太学生劉陶ら数千人が闕に詣で朱穆の赦免を訴える上書をし、宦官の専横と朱穆の公忠を対比して弁護した結果、桓帝は奏を見て赦した。数年の閑居ののち尚書に召された朱穆は、宦官の弊害を除こうと二度上疏した。一度目は、建武以来常侍に士人を用いた旧例に反し、宦官が延平以来権勢を強め、子弟親戚まで栄任を得て天下を疲弊させている実情を指摘し、悉く罷免して清廉な士人に代えるべきだと説いた。二度目は口頭で、和熹太后(鄧太后)以来、女主が宦官を通じて内外に命を伝える体制が権を君主から奪っていると訴えたが、桓帝は怒って応じず、以後宦官はしばしば詔と称して朱穆を誣告するようになった。朱穆は志を得ぬまま憤懣から癰を発し、延熹六年、六十四歳で没した。数十年の仕官の間、蔬食布衣で家に余財なく、公卿は連名でその節義を称え、益州太守を追贈された。
- 著した論策・奏教・書・詩・記・嘲など二十篇。冀州刺史時代に登用した人物には清徳の長者が多く、公卿に至った者も多かった。父の死には諸儒と共に「貞宣先生」と諡し、朱穆自身の死には蔡邕が門人と共に「文忠先生」と諡した(この私諡には荀爽の批判もあった)。
史論
- 論じて言う。朱穆は朋党を偏った悪徳と見なし、絶交論を著したが、蔡邕は「朱穆は貞にして孤(孤高)である」と評し、別に『正交論』を著してその趣旨を広げた。孔子は「上と交わって諂わず、下と交わって侮らず」と言い、また晏平仲の善き交わりを称えた。真の交友の道は、文をもって友を会し、友をもって仁を輔ける「益者三友」にあり、専諸・荊軻・侯生・豫譲のような命を賭す交わりも、利害や恩義に心を動かされたものに過ぎず、真の交わりの本質ではない。朱穆が友を分かち同志を絶ったことにも一理あるが、蔡邕の「貞孤」の評はまさに当を得ている。漢代の善き交わりの模範には王陽・貢禹、陳遵・張竦があり、後世には廉範・慶鴻、陳重・雷義の交わりが知られる。