琅邪孝王京
- 琅邪孝王京、建武十五年に琅邪公、十七年に王。恭孝で経学を好み、顕宗に殊に愛され恩寵は比類なかった。莒に都し宮室の造営に凝り、殿館の璧帯まで金銀で飾った。城陽景王の祠が国内にあり、しばしば「宮中に不便が生じる」との神託を受けたとして、開陽への遷都を願い、粛宗はこれを許した。三十一年在位して薨去。以後、夷王宇・恭王壽・貞王尊・安王据・順王容を経て、後漢末、初平元年には弟の邈が長安に赴き曹操の忠誠を献帝に伝え、曹操はこれに恩を感じた。建安十一年、容の子熙が王に立てられたが、江を渡る謀反の疑いで誅殺され国は除かれた。
賛
- 賛して言う。光武帝の十子(十王)は土地を分けられ王となった。沛献王(輔)は節を尊び、楚王(英)は流放され、阜陵(延)は怨みを抱いて祝詛に及び、広陵(荊)もまた望みを絶たれ、済南(康)は陰謀を企て、琅邪(京)は驕り放縦であった。中山(焉)・臨淮(衡)は早くに世を去りその名は知られない。東平(蒼)は善を好み、至戚の位を辞し謙譲を重ねた。東海恭王(彊)はまさに三たび譲った人であった。