東平憲王蒼(附・任城孝王尚)
- 東平憲王蒼、建武十五年に東平公、十七年に王。若くして経書を好み、美しい髭を蓄え帯回り十囲の偉丈夫であった。顕宗(明帝)に深く愛され、即位後は驃騎将軍に任じられ長史・掾史四十人を置かれ、地位は三公の上に置かれた。永平二年、南北郊・冠冕車服の制度や光武廟の登歌・八佾の舞を公卿と共に議定した。
- 帝が巡狩に出るたびに蒼は留まって皇太后を守衛した。永平四年、帝が河内で校猟しようとした際、蒼は「春の農事期に大衆を動かすべきでない」と『礼記』月令や『尚書』五行伝を引いて諫め、帝はその上奏を見て即座に還宮した。
- 蒼は至親として輔政する身であることに不安を感じ、しばしば辞職を願い出た。「小人が君子の器に乗るのは災いを招く」との『易』の言や、匹夫でも簞食の恵みを忘れぬとの故事を引き、宗室子弟が公卿位に就く前例がないことを理由に驃騎将軍の印綬を返上し藩国に帰りたいと願ったが、帝は当初許さず、永平五年にようやく帰国を許した。ただし将軍の印綬は返上させず、長史を東平太傅、掾を中大夫、令史を王家郎とし、銭五千万・布十万匹を加賜した。
- その後も蒼はたびたび朝見のため上京し、帝は深い愛情を示す手詔をしばしば送った。蒼が「家に居て何が最も楽しいか」と問われ「善を為すことが最も楽しい」と答えた逸話を帝が喜び、蒼に列侯印十九枚を贈って諸王子に佩用させた例もある。帝が『光武本紀』を蒼に示した際、蒼は『光武受命中興頌』を上呈し、帝はその文の典雅さを愛でて校書郎賈逵に訓詁を命じた。
- 粛宗(章帝)即位後も蒼への恩礼は前代に増して篤く、建初元年の地震の際には蒼が上呈した便宜三事に帝が深く感銘を受けたことが手詔に記されている。帝が光武帝・明帝の陵に県邑を造営しようとした際、蒼は光武帝の倹約遺志(「山陵は流水を防ぐ程度に留めよ」との詔)や明帝の孝道を引き、無益な工事を戒める上疏を行い、帝はこれに従い工事を中止した。
- 蒼が皇太后の遺品を目にして悲しむ帝の様子を伝え聞いた話、光武帝の器服の代わりに宛馬(血が汗のように滲む名馬)を贈られた逸話、蒼が朝見の際に受けた過分な礼遇に恐縮して辞退を申し出た上疏なども記録されている。永平十五年前後、蒼は病を得て帰国し、翌年正月に薨じた。粛宗は大鴻臚以下六人を遣って喪を監護させ、諸国の王主を東平に集めて奔喪させ、銭一億・布九万匹を賜り、手ずから策文を作って弔った。四十五年間の在位であった。
- 子の懐王忠が嗣ぎ、翌年帝は東平国を分けて忠の弟尚を任城王とした。忠の子孝王敞の代、元和三年、章帝が東平を巡幸した際、亡き蒼を偲んで涙し、蒼の陵に虎賁・鸞輅・龍旗を備えて盛大に祭った。以後、頃王端・凱を経て魏の受禅により崇徳侯として存続した。
史論
- 論じて言う。孔子は「貧しくして諂わず富みて驕らざるは、貧しくして楽しみ富みて礼を好むには及ばぬ」と言った。東平憲王蒼はまさに礼を好む者と言えよう。至戚を辞し母后(郭后)の縁から離れたのは、名を求めて親を忘れたのではなく、位が疑われれば隙が生じ、隙が近ければ大きな咎を招くと知る明哲の行いであった。東海恭王彊もまた謙譲して廃されることを知り、呉の太伯の故事になぞらえられよう。
任城孝王尚
- 任城孝王尚、元和元年に亢父・樊などを食邑として封ぜられ、十八年在位して薨じた。子の貞王安は素行が軽薄で微行を好み属官の財物を私用したため、元初六年に廃されかけたが租税の五分の一を贖罪として存続を許された。以後、節王崇が羌の反乱に際し銭帛を献じて辺費を助けるなど忠勤を示したが子なく国は絶え、桓帝・霊帝の代に河間王の子を任城王として祀を継がせ、魏の受禅により崇徳侯となった。