後漢書卷七十二 光武十王列傳第三十二 濟南安王康

済南安王康

  • 済南安王康、建武十五年に済南公、十七年に王。国内で法度を守らず賓客と交わり、姦猾な者を招いて図書を謀議したとの告発を受け、顕宗は親族の情から追及を控え五県を削るに留めた。建初八年、粛宗が削地を返還すると、康は財貨を蓄え宮室を大修し、奴婢千四百人・厩馬千二百匹・私田八百頃を有するほど奢侈を極めた。
  • 永元初め、国傅何敞が上疏し、諸侯たる者は節度を制すべきこと、奴婢・厩馬が千余に及び無用の口を増やしていること、宮婢を閉じ込めて天性を損なっていること、内第の造営が防禁に触れ巨費を費やしていることを諫め、楚の章華台や呉の姑蘇台が滅亡を招いた故事、斉景公の千駟の馬車も民に称えられなかった例を引き、恭倹に立ち返るよう説いたが、康は最後まで改めなかった。五十九年在位して薨去。子の簡王錯は太子時代、父の妓女を招くため使者の医を殺害する事件を起こしたが咎められず、六年で薨じ、以後の子孫は篤行の孝王香などを経て、順帝の代に永興元年、子なく国が除かれた。