楚王英
- 楚王英、建武十五年に楚公、十七年に楚王。母の許氏に寵がなく国は最も貧小であったが、顕宗が太子であった頃から親しく仕え、即位後もしばしば恩賞を受けた。若い頃は遊侠を好み賓客と交わったが、晩年は黄老の学と浮屠(仏教)の斎戒祭祀を好むようになった。永平八年、死罪贖罪のための縑帛献上に際し、明帝は「楚王は黄老の微言を誦し浮屠の仁を尚び、潔斎三月して神と誓う、その贖い物は伊蒲塞(優婆塞)・桑門(沙門)への供養に充てよ」と応じた。
- しかし楚王英はのち方士と広く交わり、金亀玉鶴に文字を刻んで符瑞と称するようになった。永平十三年、燕広の告発により、漁陽の王平・顔忠らと図書を作り謀反を企てたとされ、有司は「姦猾を招き図讖を作り官爵を擅に授けた大逆」として誅殺を奏請したが、帝は親族の情から死を免じ、丹陽涇県に流し湯沐邑五百戸を与えた。翌年、楚王英は自殺し、国は除かれた。帝は光禄大夫を遣って弔祭させ、諸侯の礼で葬らせ、妻子を保護させた。
- 楚王英の獄はその後何年も続き、京師の親戚・諸侯・州郡の豪傑や、審理にあたった吏の阿附まで疑われ、死罪・流罪に処された者は千人を数えた。帝はのち許太后(英の妻の母)や英の妻子に会って悲泣した。建初二年、粛宗(章帝)は英の子種ら六人を列侯に封じたが官属・吏人は置かせなかった。元和三年、許太后の死に際しては光禄大夫を遣って弔祭させ、英の遺骸を改葬し諸侯王の礼を加えた。