序――光武帝十一子
- 光武皇帝の十一子。郭皇后が生んだのは東海恭王彊・沛献王輔・済南安王康・阜陵質王延・中山簡王焉。許美人が生んだのは楚王英。光烈皇后が生んだのは顕宗(明帝)・東平憲王蒼・広陵思王荊・臨淮懐公衡・琅邪孝王京。
東海恭王彊
- 東海恭王彊、建武二年に立てられ、母の郭氏が皇后となったため皇太子となった。建武十七年、郭后が廃されると彊は自ら安んじられず、たびたび藩国への転出を願い出た。光武帝はためらったが数年後に許し、十九年に東海王、二十八年に就国。帝は彊の廃立が過失によるものでなく礼を尽くして去ったことを重んじ、東海郡に加えて魯郡二十九県を与え、虎賁旄頭・鍾虡の懸架など天子に準ずる待遇を許した。彊は再三これを辞退したが帝は許さず、その上奏文を公卿に示して称賛した。
- 永平元年、彊が病むと顕宗は中常侍を遣って医薬を届けさせ、諸王を見舞いに向かわせたが、まもなく彊は薨じた。臨終の上疏で厚恩に報いえぬことを謝し、自身に男子がなく国の存続が危ぶまれることを憂い、東海の郡を返上し三人の娘をそれぞれ小国の侯とするよう願い、皇太后への孝養を託した。帝は悲しみ、大司空に喪事を護らせ、殊礼をもって葬らせたが、彊が生前謙倹を旨としていたことを踏まえ、厚葬を控えるよう詔した。
- 立つこと十八年、三十四歳で薨去。子の靖王政が嗣いだが淫欲薄行のため薛県を削られた。孫の頃王肅は謙倹で恭王の法度に従い、西羌討伐や国費に私財を献じた。曾孫の孝王臻は篤行の人で、父の喪に兄弟で服喪を重ね、租税を分けて親族を賑わせた美挙により順帝から加増を受けた。以後、懿王祗の代に献帝より崇徳侯に封ぜられて後漢滅亡後も家系が続いた。