後漢書卷六十八 張法滕馮度楊列傳第二十八 滕撫

江淮の反乱を鎮めた将

  • 滕撫は字を叔輔、北海劇の人である。州郡に仕えて涿令に遷り、文武の才があり太守から六県の郡職を兼ねて任され、七年の治政で道に落ちた物を拾わぬほど治まった。順帝末、揚州・徐州で盗賊が絡み合って蜂起した。
  • 建康元年(144年)、九江の范容・周生らが歴陽に屯拠し江淮の大患となった。御史中丞馮緄が揚州刺史尹燿・九江太守鄧顯を督して討ったが両名は敗死し、さらに隂陵の徐鳳・馬勉らも郡県を侵した。徐鳳は絳衣黒綬で「無上将軍」を、馬勉は皮冠黄衣玉印で「皇帝」を称して当塗山に営を築き年号を建て百官を置き、別帥の黄虎に合肥を攻め落とさせた。
  • 翌年、広陵の張嬰ら数千人も広陵で反乱を起こしたため、三公は滕撫を推挙し九江都尉として中郎将趙序とともに馮緄の軍と合流し数万の州郡兵を率いて討たせた。梁太后は諸将では制しきれぬとして太尉李固の派遣を議したが、実行前に滕撫らが進撃して馬勉・范容・周生らを大破し千五百級を斬った。徐鳳は残兵を率いて東城県を攻め焼いたが、下邳の謝安が募兵に応じ一族を率いて伏兵で徐鳳を斬り、平郷侯食邑三千戸に封じられた。滕撫は中郎将となり揚州・徐州両州の軍事を督し、張嬰も撃って千余人を斬獲した。趙序は臆して進まず首級を偽り増やしたため召還され棄市された。
  • さらに歴陽の華孟が「黒帝」を称して九江を攻め郡守を殺したが、滕撫は勝ちに乗じて撃破し三千八百級を斬り七百余人を虜とし牛馬財物は数えきれぬほどであった。東南は平定され、滕撫は左馮翊に任じられ子一人が郎に取り立てられた。賞賜はすべて部下に分け与え、方直で権勢に媚びなかったため宦官の怒りを買い、論功封侯の段になって録尚書事の胡広が宦官の意を受けて排斥する上奏を行い、滕撫は封じられぬまま天下に怨まれつつ家で没した。