名将の家系と南方鎮定
- 馮緄は字を鴻卿、巴郡宕渠の人である。若くして春秋・司馬兵法を学んだ。父の馮煥は安帝の代に幽州刺史として姦悪を厳しく糾弾したが、恨みを抱いた者が璽書を偽造して馮煥と玄菟太守姚光を譴責させ、姚光は処刑され馮煥も囚われた。馮煥が自殺しようとすると馮緄は詔文に不審があるとして止め「事情を自ら上訴すべきです、罪を認めるのはそれからでも遅くない」と諫めた。馮煥はこれに従い上書して詐りが露見し、詐りを働いた者は処罰されたが、馮煥自身は獄中で病没した。帝はこれを憐れみ馮煥・姚光それぞれに銭十万を賜り子を郎中とした。馮緄はこれにより名を知られた。
- 家が富み施しを好み、孝廉に挙げられ広漢属国都尉を経て御史中丞を拝命した。順帝末、揚州諸郡の軍事を持節督し、中郎将滕撫とともに群賊を撃破して隴西太守に遷り、鮮卑が辺境を侵すと遼東太守として招降した。京兆尹・司隸校尉を歴任して威刑を立て、廷尉・太常に遷った。
- 長沙蛮が益陽に屯集し延熹五年(162年)にはさらに零陵蛮も合わせて二万余の兵で城郭を攻め焼き長吏を殺害、武陵蛮夷も反乱し荊州刺史劉度・南郡太守李肅は敗走した。馮緄は車騎将軍として十余万の兵を率い討伐を命じられた。詔策には「蛮夷が中華を乱して久しく討たれず、諸城が焼かれ官人が踏みにじられても州郡の将吏は職に殉ぜず逃げ去るのは恥ずべきことだ。将軍には元来威猛の誉れがあるゆえ六師を授ける」とあり、前代の陳湯・馮奉世・傅介子の寡兵で大敵を破った故事、衛青・霍去病の北征の功を引いて激励し、出征後は内から統制せず将軍の裁量に任せると述べた。
- 天下が飢饉で国庫が乏しく、出征のたびに公卿の俸禄を減じ諸侯の租賦を借りていた当時、宦官はしばしば将帥を軍資の浪費で陥れていた。馮緄は賄賂を行わなかったため陥れられることを恐れ、伯夷ですら疑われ盗跖ですら信じられる例、楽羊が功を立てながら讒言の書を示された故事を引き、中常侍一人を軍に派遣し財務を監督させてほしいと上疏した。尚書朱穆は馮緄が財を自ら嫌ったとして弾劾したが詔により咎めなかった。
- 軍が長沙に至ると賊は営道でみな降伏を願い出た。さらに武陵蛮夷を撃ち四千余級を斬り十万余人を降し荊州は平定された。詔で銭一億を賜ったが固辞して受けず、功を従事中郎応奉に推し、応奉の推薦で司隸校尉に任じられたが辞職を願った。朝廷は許さなかった。
- 監軍使者張敞が宦官の意を受けて馮緄が婢二人を戎装で従え、江陵で私に石碑を刻んで功を記したと弾劾したが、尚書令黄儁は罪に問うべき正法がないとして却下した。長沙の賊が再び桂陽・武陵を攻めた際、馮緄は軍を戻したことを咎められ免ぜられたが、ほどなく将作大匠、河南尹に転じ宦官の子弟が地方長官になれぬ旧典を上言したが帝は容れず、再び廷尉となった。山陽太守単遷が罪で下獄した際、馮緄が厳しく調べて死に至らしめたことを恨んだ単遷の兄で車騎将軍であった単超の一族の宦官らが誹謗を共謀し、馮緄は司隸校尉李膺・大司農劉祐とともに左校(労役)に送られたが、応奉の上疏で赦された。のち屯騎校尉、再び廷尉となり官にて没した。弟の馮允は清白孝行で推歩の術(天文暦算)に長け、降虜校尉となり家で没した。