清廉な地方官と海賊の平定
- 法雄は字を文彊、扶風郿の人である。斉の襄王法章の後裔で、秦が斉を滅ぼした後、子孫は田姓を憚って「法」を氏とした。宣帝の代に三輔に移り代々二千石を務めた家柄であった。
- 郡の功曹から太傅張禹府に辟され、高第で挙げられて平氏の長となった。政事に長け姦悪の摘発を得意とし盗賊は稀にしか発生せず吏人は敬い慕った。南陽太守鮑得の推挙で宛陵令に遷った。
- 永初三年(109年)、海賊張伯路ら三千余人が赤い頭巾に絳色の衣で「将軍」を自称し沿海九郡を侵し二千石・令長を殺した。侍御史龎雄が州郡兵を督して撃つと張伯路らは一旦降ったがまた集結し、翌年には平原の劉文河ら三百余人と共に使者を自称して厭次城を攻め長吏を殺し、高唐に転じて宮寺を焼き囚人を解放した。賊の渠帥はみな「将軍」を称して張伯路に朝謁し、張伯路は五梁冠に印綬を佩びるまでになった。
- 党勢はさらに増したため御史中丞王宗が節を持って幽州・冀州の諸郡兵数万を発し、法雄を青州刺史に徴して王宗とともに討たせた。連戦して賊を破り数百を斬り溺死させ武器財物を多く得た。折しも赦の詔が到り、賊はなお武装を解かず降伏をためらっていたが、王宗は刺史・太守と議して一気に攻めようとした。法雄は「兵は凶器、戦は危事であり、勇に頼らず勝利を頼みとしないのがよい。賊が船で海に浮かび遠島に逃げ込めば攻めがたい。赦令が出た今こそ兵を引いてその心を慰め誘えば、勢いは自然に解け散る」と説き、王宗はこれに従い兵を引いた。賊は大いに喜んで略取した人々を解放し東へ去ったが、東莱郡の兵だけは武装を解かなかったため賊は再び恐れて遼東の海島に逃げた。
- 永初五年(111年)春、賊は食糧に窮して再び東莱を襲ったが法雄は郡兵を率いて撃破し、賊は遼東へ逃げ戻り、遼東の李久らが斬って平定した。以後州境は清らかに治まった。法雄は行部のたびに囚徒を調べ顔色を観察して情偽を見抜き、法を守らぬ長吏はみな印綬を解いて去った。在州四年で南郡太守に遷り、断獄を省き戸口を増やした。
- 南郡は江水・沔水に沿い雲夢の藪沢を抱え、永初年間は虎狼の害が多く前任の太守が懸賞をかけて捕らえさせたがかえって被害者が多く出ていた。法雄は属県に布告し「虎狼が山林にいるのは人が城市に住むのと同じで、至化の世には猛獣も人を害さぬものだった。恩信寛沢が飛ぶ鳥・走る獣にまで及ぶべきである。太守は不徳とはいえこの理を忘れられぬ。檻や落とし穴を壊し、みだりに山林で捕らえてはならない」と命じた。以後虎の害は次第に治まり人々は安堵し、在任中は豊作が続いた。初平年間に官にて没した。子の真は「逸人伝」に見える。