後漢書卷六十八 張法滕馮度楊列傳第二十八 張宗

更始・光武に仕えた武将

  • 張宗は字を諸君といい、南陽魯陽の人である。王莽の時、県の陽泉郷佐であったが、王莽が敗れ義兵が起こると陽泉の民三、四百人を率いて挙兵し、西へ長安まで攻略した。更始帝に偏将軍とされたが、更始の政治の乱れを見て家族を連れ安邑に身を寄せ、大司徒鄧禹が西征して河東を平定すると自ら帰順した。鄧禹は張宗が権謀に富むと聞き偏将軍に表した。
  • 鄧禹の軍が栒邑に至った際、赤眉の大軍が迫り、鄧禹は栒邑では守り切れぬとして堅城へ移ろうとしたが、諸将は追撃を恐れて殿軍を嫌がった。鄧禹は諸将の名を竹簡に記して籤引きさせようとしたが、張宗だけは籤を引かず「死生は天命、危難を避けて安逸を取ろうか」と申し出て自ら殿軍を引き受けた。鄧禹が「将軍には陣中に幼く弱い親族がいるのに」と案じると、張宗は「一人の兵が力を尽くせば百人に匹敵し、万夫が死を賭せば天下を横行できる。私は数千の兵を擁して大軍の後を承るのだ、なぜ必ず敗れると決めつけるのか」と答えて残った。
  • 諸営が引き上げた後、張宗は軍を励まし塁壁を固めて赤眉に対峙した。鄧禹は前方の県で「張将軍の兵で百万の敵に当たるのは、小さな雪を沸騰した湯に投げ込むようなものだ」と評して歩騎二千を返して迎えに行かせたが、張宗の軍が発つと同時に赤眉が迫ったため戦って撃退し、ようやく本営に帰った。諸将はその勇を服した。長安に戻った後も夜襲で赤眉の陣中に入り矛で肩を貫かれ、諸営を転戦して流矢を受けるなど幾度も死にかけた。
  • 鄧禹が召還されると光武帝は張宗を京輔都尉とし、突騎を率いて征西大将軍馮異とともに関中の諸営を撃破させ、河南都尉に遷した。建武六年(30年)都尉官が廃止されると太中大夫となった。建武八年(32年)潁川桑中の盗賊蜂起を平定し、その後も青州・冀州の盗賊を謁者として督軍し討平した。建武十六年(40年)琅邪・北海の盗賊再発の際も二郡の兵を督して方略を定め懸賞を明らかにして討ち破り、沛・楚・東海・臨淮の群賊もその威武を恐れて互いに捕らえ斬り合う者が数千に及び、青州・徐州は震え上がった。のち琅邪の相に遷り、厳猛な政を好み断固として賊を討ったが、永平二年(59年)官にて没した。