後漢書卷六十七 桓榮丁鴻列傳第二十七 桓榮

桓榮(字は春卿、沛郡龍亢の人)。貧しい家から苦学して『歐陽尚書』を修め、明帝の師傅として重んじられた経学者。子の桓郁、孫の桓焉、曾孫の桓典ら一族は代々帝師・高官を輩出し、後漢を通じて桓氏の学が栄えた。

年表(15件)

出自と苦学の日々

  • 桓榮は字を春卿といい、沛郡龍亢の人である。若くして長安に学び、博士九江の朱普について『歐陽尚書』を学んだ。家が貧しく人に雇われて働きながら勉学を続け、十五年間家に帰らないほど専心した。
  • 王莽の簒位のころ帰郷したが、ちょうど師の朱普が没したため、九江へ喪に赴き、みずから土を運んで墓を築き、そのまま留まって数百人の門徒に教授した。王莽が敗れ天下が乱れると、経書を抱いて弟子とともに山谷に逃れ、飢えても講論をやめなかった。その後も江淮の間で客居しつつ教授を続けた。

明帝の師傅として

  • 建武十九年(43年)、六十余歳で初めて大司徒府に召された。当時、後の顕宗(明帝)が皇太子に立てられ経学に明るい師を求めており、桓榮の弟子で豫章の何湯が虎賁中郎将に抜擢されて『尚書』を太子に授けていた。光武帝が何湯に師の名を問うと桓榮の名を答えたため、帝は桓榮を召して『尚書』を講じさせ、大いに喜んだ。
  • 桓榮は議郎を拝命し銭十万を賜って宮中に入り太子に教授することとなった。参内のたびに公卿の前で経書を講じ、帝は「先生に会うのが遅すぎた」と称賛した。歐陽博士の欠員が出た際、帝は桓榮を用いようとしたが、桓榮は同門の彭閎・臯弘に及ばないと辞退し、帝は許した上でこの二人も議郎に任じた。
  • 帝みずから太学に行幸し諸博士の論難を聴いた際、桓榮は儒衣を身に着け温恭かつ礼譲をもって議論し、他の儒者は及ばなかった。宮中に招かれた折、賜った珍果を人々が懐に収める中、桓榮だけは両手で捧げて拝礼し、帝は「これぞ真の儒者である」と指さして笑った。以後厚く敬われ、太子宮に五年間宿直させられたが、門下生の胡憲を侍講に推挙して自身は朝一度の出入りで済むようにした。病臥した際も太子は毎日見舞いを送った。
  • 建武二十八年(52年)、百官を集めた席で誰を太子の傅とすべきか諮問された際、群臣は太子の外戚である隂識を推したが、博士張佚は「陛下は太子を隂氏のために立てたのか、天下のために立てたのか。天下のためならば天下の賢才を用いるべきだ」と正論を述べた。帝はこれを称賛し、張佚を太子太傅、桓榮を少傅とし、輜車・乗馬を賜った。桓榮は門下生を集めてこれを示し「今日の栄誉は経学に励んだ賜物だ」と語った。
  • 太子の学業が成ると桓榮は上疏して謝辞を述べ、太子も返書で師恩に応えた。建武三十年(54年)、太常に任じられた。かつて艱難の中でも講誦をやめなかった桓榮を嘲った同郷の桓元卿は、後に桓榮が太常となったのを見て「学問がこれほど利するとは思わなかった」と嘆じたという。
  • 顕宗(明帝)即位後も師として厚遇され、二子は郎に任じられた。八十を超えて辞職を願い出るたびに賞賜が加えられた。永平二年(59年)、三雍(明堂・辟雍・霊台)が完成すると桓榮は五更に任じられ、大射・養老の礼のたびに帝みずから桓榮と弟子を堂に導き経を執って講説させた。関内侯に封じられ食邑五千戸を賜った。
  • 病篤くなり爵位・封地を返上したいと上疏したが、帝は自ら見舞い、経巻を抱いて出迎え、涙を流して牀・帷帳・刀剣・衣服を賜った。以後、諸侯・将軍・大夫の見舞いも牀下で拝礼するのが常となった。卒すると帝は喪服に着替えて葬送し、首山の南に墓地を賜り、兄の子二人を四百石の都講生に、その他門徒の多くも高官に取り立てた。子の郁が跡を継いだ。

史論(張佚と桓榮について)

  • 張佚が隂侯を面詰して自らの地位を危うくしたのは、正義を明らかにするための直言であった。一言で恩賞を得ることを志士は恥とすることもあるが、爵を受けて譲らないことは古の詩人も歌に詠んだところである。張佚が朝議で外戚を退け自らその任に当たったのは、全き徳であろう。廉潔さが足りないのではと疑う者もあろうが、楽羊が子を食して功を立てたのを疑われ、西巴が鹿の子を放って罪を得てかえって傅に用いられた故事のように、人情の真偽を推し量って評価すべきである。

桓郁――父の学を継ぐ

  • 郁は字を仲恩という。父の任により郎となり、篤実で学を好み父の業を継いで『尚書』を教授し、常に数百人の門徒があった。桓榮の死に際し爵位を兄の子汎に譲ろうとしたが許されず、やむなく封を受けて租税収入はすべて汎に与えた。
  • 帝は先師の子として厚遇し、しばしば宮中で経書を論じさせ、政事を諮問した。侍中に転じ、帝みずから作った『五家要説章句』の校定を命じられた。
  • 永平十五年(72年)、皇太子(後の章帝)に経を授け越騎校尉に転じた。忠言をしばしば進言し多く採用された。章帝即位後、母の喪により辞職を願い出て侍中のまま服喪を許され、建初二年(77年)屯騎校尉に転じた。
  • 和帝が幼くして即位すると、侍中竇憲は少主に経学を学ばせようと皇太后に上疏し、桓栄・桓郁父子が二代にわたって帝師を務め、宗正劉方も詩経に明るいことを理由に、両名を召して教授させるよう進言した。これにより郁は長楽少府に転じ再び侍講に入り、侍中奉車都尉となった。永元四年(92年)丁鴻に代わって太常となったが、翌年病没した。二代の帝を教えた恩寵は篤く、賞賜は前後数百千万に及んだ。門人の楊震・朱寵はいずれも三公に至った。
  • 桓榮が師の朱普から受けた章句は四十万言に及び冗長であったが、桓榮は明帝に授ける際二十三万言に削り、郁はさらに削って十二万言とした。これにより「桓君大小太常章句」と呼ばれるようになった。爵は子の普が継ぎ、曾孫の郁の系統では中子の焉がよく家学を伝えた。孫の鸞、曾孫の彬もそれぞれ知られた。

桓焉――三代の帝師

  • 焉は字を叔元という。父の任により郎となり、経学と篤行で知られた。永初元年(107年)安帝に経を授け、三たび遷って侍中歩兵校尉となった。永寧年間(120〜121年)、順帝が皇太子に立てられると太子少傅、ほどなく太傅に転じた。母の喪により大夫として服喪し、期を過ぎて牛酒を賜り光禄大夫を拝命、太常に遷った。
  • 皇太子が廃されて済陰王となった際、太僕来歴・廷尉張皓とともに諫めたが容れられなかった。順帝即位後、太傅として太尉朱寵とともに録尚書事となり、宮中で講経するかたわら建言して三公・尚書が国事に参与すべきことを説き、帝はこれに従った。かつて廃太子問題で正論を守ったことにより陽平侯に封じられたが固辞して受けなかった。
  • 召に応じず禁錮された吏を任用した罪に問われて三年後赦され光禄大夫に復した。陽嘉二年(133年)来歴に代わり大鴻臚となり、数日で太常に遷り、永和五年(140年)王龔に代わり太尉となったが、翌年漢安元年(142年)日食のため免官され、その翌年家で没した。門弟数百人のうち黄瓊・楊賜が最も顕貴となった。孫に典がいる。

桓典――清廉な御史

  • 典は字を公雅といい、家学をよく伝えた。『尚書』を潁川で教授し門徒数百人を抱えた。孝廉に挙げられ郎となったが、まもなく国相王吉が罪で誅されると人々は近づくのを恐れる中、典だけが官を棄てて遺骸を収め葬り、三年喪に服して墳を築き祠堂を建てて礼を尽くした。
  • 司徒袁隗府に辟され髙第で挙げられ侍御史となった。当時宦官が権を握っていたが、典は職務を執って回避することなく、常に驄馬に乗ったため、京師では「行き行きてまさに止まれ、驄馬御史を避けよ」と語られた。黄巾の乱が滎陽に起こると軍を督して功をあげたが、宦官と対立したため賞は行われず、七年間御史のまま昇進しなかった。
  • のちに郎として出仕し、霊帝崩御後は大将軍何進の謀議に参与し、三たび遷って羽林中郎将となった。献帝即位後、三公は典が何進とともに宦官誅殺を謀り功は成らずとも忠義が明らかであったとして上奏し、家人一人が郎に任じられ銭二十万を賜った。西の関中に従い御史中丞を拝命、関内侯に封じられた。車駕が許に都を移すと光禄勲に遷り、建安六年(201年)官にて没した。

桓鸞――節義を貫いた地方官

  • 鸞は字を始春といい、焉の門人である。粗衣粗食に甘んじ、世の乱れを恥じて仕官を望まなかったが、四十余歳のとき名望ある太守向苗に孝廉に挙げられ膠東令となった。しかし赴任早々向苗が没したため職を辞して奔喪し、三年の喪を終えてから帰った。淮汝の間の人々はその義を高く評価した。その後已吾・汲の二県令を務め、諸公の推挙で議郎を拝命し、五つの事案を上陳して賢才の登用・佞倖の黜退・苑囿の縮小・徭役賦税の軽減を説いたが、宦官の意に逆らったため取り上げられず病を理由に免官した。中平元年(184年)七十七歳で家に没した。子は曄。

桓曄(一名嚴)――節を守り異郷に没す

  • 曄は字を文林、一名を嚴という。志操を修め、姑(父の姉妹)が司空楊賜の夫人であったが、鸞の死に赴いた姑が身なりを整えてから邸に入ったのを見て内心これを非としたほど厳格であった。楊賜家からの祭祀の品も辞退し、以後京師に行っても宿泊しないなど、その清廉さは徹底していた。
  • 郡功曹を経て孝廉・有道・方正・茂才に挙げられ三公にも辟されたがすべて応じなかった。初平年間(190〜193年)天下が乱れると会稽に難を避け、さらに海を渡って交阯に客居したが、廉潔な行いが評判となり、最後は無実の罪を着せられて合浦の獄で没した。

桓彬――清節の士

  • 彬は字を彦林、焉の兄の孫である。父の麟は字を元鳳といい、桓帝の初め議郎として宮中で講経したが、左右の意に逆らって許県令に左遷され、病で免官後、母の喪の際に自らも没した。四十一歳であった。碑・誄・讃・説・書など二十一篇を著した。
  • 彬は若くして蔡邕と名を並べた。孝廉に挙げられ尚書郎を拝命したが、当時中常侍曹節の女婿馮方も郎であり、彬は志操を励まし左丞劉歆・右丞杜希と親しむ一方、馮方とは酒食をともにしなかった。これを恨んだ馮方は彬らを「酒党」と讒言し、案件は尚書令劉猛のもとに下った。劉猛は彬らと親しく事を取り上げなかったため曹節が激怒して劉猛を阿党として弾劾し詔獄に下したので朝廷は震撼したが、劉猛は泰然としており旬日で釈放され官を免ぜられ禁錮となった。彬もこれにより廃され、光和元年(178年)四十六歳で家に没した。儒者たちはみな彼を惜しみ、著した七説・書計三篇を蔡邕らが論序し、四つの美点(早熟の聡明・学の優秀と文の華麗・仕えて禄を貪らぬ高潔・栄達より節操を守る潔白)を称えて碑を立てた。

史論(桓氏一族の学問について)

  • 伏氏は東西の京を通じて代々名儒として爵位を得たが、中興以後は桓氏がとりわけ盛んで、桓榮から典に至るまで代々その道を宗とし、父子兄弟が代わる代わる帝師となり、その業を受けた者はみな卿相に至り当世に顕れた。孔子は「古の学ぶ者は己のためにし、今の学ぶ者は人のためにする」と言った。人のためにする者は世評に頼って己を顕そうとし、己のためにする者は本心から道に会おうとする。桓氏が代々世に尊ばれたのは、はたして己のための学であったろうか。