後漢書卷六十六 鄭范陳賈張列傳第二十六 賈逵

献策と左氏三十事の上奏

  • 賈逵、字は景伯、扶風平陵の人。九世の祖賈誼は文帝の梁王太傅、曾祖父賈光は常山太守。父賈徽は劉歆に左氏を学び、国語・周官も修め、塗惲に古文尚書を、謝曼卿に毛詩を学び、左氏条例二十一篇を著した。賈逵は父の業をことごとく継ぎ、弱冠で左氏伝と五経本文を暗誦し、古学でありながら穀梁五家の説にも通じた。身長八尺二寸、「問事不休の賈長頭」と称された。
  • 永平年間、左氏国語の解詁五十一篇を著して献上、顕宗に重んじられ秘館に蔵された。神雀の出現をめぐる問いに答えて武王・宣帝の故事を引き、蘭台で神雀頌を作らされ郎に任じられた。班固と並んで秘書を校し、粛宗(章帝)の代には古文尚書・左氏伝を特に好まれ、建初元年、白虎観・雲台で講義するよう召された。
  • 帝が「左氏伝が公羊・穀梁二伝より優れる点」を問うと、賈逵は左氏の三十事を条奏し、祭仲・紀季・伍子胥・叔術らの例を挙げて「左氏は君臣父子の義に深く、公羊は権変に偏る」と論じた。また左氏は図讖と合致し、劉氏が堯の後裔であること、少昊が黄帝に代わったこと(図讖の「帝宣」に当たる)を明証する唯一の伝であるとし、漢が堯の後を承けて火徳たる根拠を左氏にのみ求められると説いた。帝はこれを喜び、布五百疋・衣一襲を賜り、公羊・厳・顔の弟子二十人を選んで左氏を教授させた。
  • 賈逵の母が病んだ際には校書の例を超えて銭二十万を特賜された。古文尚書と経伝・爾雅の訓詁の一致をたびたび説き、詔により欧陽・大小夏侯尚書との異同を三巻にまとめ、また斉魯韓詩と毛詩の異同、周官解故も撰した。衛士令に遷り、建初八年には諸儒に左氏・穀梁春秋・古文尚書・毛詩を学ばせる詔が下り、四経が世に行われるようになった。門下は千乗王国郎に任じられ学者に慕われた。
  • 和帝の永元三年、左中郎将、八年には侍中・騎都尉として近侍し重んじられた。東莱の司馬均、陳国の汝郁を推薦し、いずれも徴されて厚遇された。司馬均は郷里で不正を裁く清廉さで知られ、汝郁は孝行と徳教で流民数千戸を帰属させた。
  • 賈逵の著した経伝義詁・論難は百余万言に及び、詩・頌・誄・書・連珠・酒令なども著し、後世「通儒」と称された。ただし小節を修めなかったため世の譏りを受け、大官には至らなかった。永元十三年、七十二歳で没し、朝廷はこれを惜しみ、二子を太子舎人とした。

史論

  • 論じて言う。鄭興・賈逵の学は数百年にわたって行われ、諸儒の宗とされたが、それは形ばかりのものに過ぎなかった。桓譚は讖を善しとせず放逐され、鄭興は言を遜ってかろうじて免れ、賈逵は文を図讖に付会することに最も長けたゆえに貴顕を得た。時の君主が学問をこのように評価したことは、悲しむべきことである。