後漢書卷六十六 鄭范陳賈張列傳第二十六 陳元

左氏博士設置をめぐる論争

  • 陳元、字は長孫、蒼梧廣信の人。父の陳欽は左氏春秋を黎陽の賈護に学び、賈護と別に一家を成した。王莽も陳欽から左氏を学び、猒難将軍に任じた。陳元は幼くして父の業を継ぎ訓詁に精励し、郎に任じられた。建武初め、桓譚・杜林・鄭興と並んで学者に推された。
  • 左氏博士設置が議されると范升が「左氏は浅末で立てるべきでない」と奏したため、陳元は闕に詣でて上疏した。「光武帝は撥乱反正し、経学の真偽混乱を憂え、丘明が孔子に親しく学んだ賢者であることを知りながら左氏博士を立てて可否を諸儒に問うたのに、今の論者は旧聞に固執して虚言を守り、左氏は孤学ゆえに異派に覆い隠されている」とし、伯牙の絶弦・卞和の泣血・仲尼が世に容れられなかった故事を引いて、范升らの奏が瑣末な字句の齟齬を大過のごとく言い立てていると批判した。「先帝の行いを後主が必ず踏襲すべきなら、盤庚の遷殷や周公の洛邑営造もなかったはずで、陛下も山東に都しなかったはずだ」と論じ、武帝が公羊を、宣帝が穀梁をそれぞれ立てた先例を挙げ、先帝と後帝の学の相違は問題でないとした。孔子が「拝下」の礼で衆に従わなかった故事も引き、「今こそ左氏を立てて先聖の宿冤を解くべきだ」と訴えた。
  • 上奏は下され、范升と陳元は十余度にわたり論争を重ねたが、ついに左氏学が立てられ、太常の選んだ博士四人の中で陳元は首位であった。しかし帝は范升との激しい対立を避け、次点の司隷従事李封を任じた。これに対し公卿以下が廷争を重ね、李封が病没すると左氏は再び廃された。
  • 陳元は才の高さで知られ、司空李通府に辟された。大司農江馮が司隷校尉に三公の事を督察させよと上言した際、陳元は「師とする臣は帝の賓、臣とする臣は覇の道具である」として、太公・管仲・冢宰の故事や、王莽が公輔の権を奪って法を峻厳にしながら董忠の謀反すら防げなかった例を引き、君主が自ら驕らず臣を信任すべきことを説いて、司察の議を退けさせた。のち司徒欧陽歙府に辟され、時務や郊廟の礼をたびたび論じたが用いられず、病により辞し、老年で家で没した。子の堅卿は文章に優れた。