王莽期から更始・建武期
- 范升、字は辯卿、代郡の人。九歳で『論語』『孝経』に通じ、長じて梁丘易・老子を修めて後進に教えた。王莽の大司空王邑に議曹史として辟され、王莽が頻繁に兵役・賦税を課すのを見て王邑に上申し、「明君と称されながら民の困窮に応じないのは過ちであり、覆車の轍を踏み続ければ胡貊・青徐の賊が帷帳の内にまで及ぶ」と諫めたが、用いられなかった。病と称して辞そうとしたが許されず、上党への使いに出た隙に漢軍に留まり戻らなかった。
- 建武二年、光武帝に召され議郎、のち博士に任じられたが、梁丘易を修める梁恭・呂羌に自分より年長で学識深い者がいるとして辞退を願い出た。帝は許さずかえって重んじた。
- 尚書令韓歆が費氏易・左氏春秋の博士設置を上疏した際、范升は雲台での論議で「左氏は孔子の直伝ではなく丘明に出るもので、師承が定かでなく先帝も重んじなかった」と反対し、韓歆・太中大夫許淑らと激論を交わした。退いて上疏し、京氏易・費氏易・高氏・鄒氏・夾氏など諸学派が次々に立てられれば混乱を招くと説き、「学びて約せざれば必ず道に叛く」との孔子・顔淵・老子の言を引いて、左氏に対する十四の疑義を奏上した。太史公(司馬遷)が左氏を多く引くとの反論に対しては、さらに太史公の五経に背く三十一の事例を挙げて論駁した。
- のち妻の訴えにより繋獄されたが赦されて帰郷し、永平年間に聊城令となったが、事あって免ぜられ、家で没した。