後漢書卷六十六 鄭范陳賈張列傳第二十六 鄭興

出自と隗囂への出仕

  • 鄭興、字は少贛、河南開封の人。若くして『公羊春秋』を学び、のちに『左氏傳』を好み、精思して大義に通じ、同学の者から師と仰がれた。博士金子嚴に左氏を学び、王莽の天鳳年間には劉歆の門で大義を講じた。劉歆はその才を愛し、条例・章句・訓詁の撰述や三統暦の校訂を委ねた。
  • 更始帝が立つと司直李松の長史となり、遷都に際し山東出身の諸将は洛陽に留まることを勧めたが、鄭興は「更始帝は荊楚より起こったのに、山西の豪傑が争って王莽を誅した恩を顧みず久しく撫でずにいれば民心が離れ賊が再起する」と説いた。斉の小白(桓公)が入国しても侯と称されなかった『春秋』の故事を引き、赤眉を先に平らげるより先に関中に都することを勧めた。更始帝はこれを容れて西行を決め、鄭興を諫議大夫として関西・朔方・涼・益三州の安集にあたらせ、のち涼州刺史とした。天水の反乱で郡守が殺され、鄭興も連座して免官された。
  • 赤眉の乱で東の道が塞がれたため西の隗囂のもとへ身を寄せたが、隗囂が自ら西伯(文王)を気取り王を称そうとするのを、鄭興は『左傳』の言を引いて諫め、思いとどまらせた。隗囂が官位を濫立しようとした際も、器と名は人に貸すべきでないと諫めて止めさせた。
  • 隗囂が子の恂を人質に出す際、鄭興は父母改葬のための帰郷を願い出たが許されず、逆に舎を移され禄を厚くされた。鄭興は「親に事えるには生きては礼をもって仕え、死しては礼をもって葬り祭るべきで、親を餌に禄を釣るのは無礼である」と強く抗議し、ついに妻子とともに東に帰ることを許された。時に建武六年。侍御史杜林はかつて隴右で鄭興と親しく、その学識と節義を朝廷に推薦した。

日食の上疏と讖への態度

  • 翌年、太中大夫に召された。三月晦日に日食があり、鄭興は上疏して『春秋』の災異説を引き、近年の咎徴が続くのは政に欠けるところがあるためだとし、賢才の登用(漁陽太守郭伋を大司空にとの世論)を進言、賢を用いることを憚らぬよう説いた。
  • 光武帝が郊祀の事を讖によって決めようとした際、鄭興が「臣は讖を為さず(学ばず)」と答えたため帝は怒ったが、鄭興は「未学であって非とするのではない」と釈明した。政事の議論では経義に基づき、讖を善しとしなかったため重用されなかった。

征南従軍から蓮勺左遷、晩年

  • 建武九年、征南将軍岑彭の軍に従い津郷に駐屯、岑彭が刺客に殺されるとその軍を統率し、大司馬呉漢と共に公孫述を撃った。述の死後は成都に留め置かれたが、使者としての職務中に私的に奴婢を買った罪で弾劾され、蓮勺令に左遷された。
  • 蓮勺では戦乱後の荒廃した郡県を城郭修築・礼教振興によって立て直そうとしたが、間もなく事あって免官された。以後、左氏・周官・暦数の学に精通し、杜林・桓譚・衛宏らもその見解を参照した。世に左氏を伝える者の多くは鄭興を祖とし、賈逵は父の学を伝えたため「鄭賈の学」と併称された。蓮勺を去ったのちは仕えず、閿郷で門人に教授し、三公府の招聘にも応じないまま家で没した。

鄭衆(鄭興の子)――太子への節義と匈奴使節

  • 鄭衆、字は仲師。十二歳で父より左氏春秋を学び、三統暦・春秋難記条例を著し、易・詩にも通じた。建武年間、皇太子と山陽王劉荊が虎賁中郎将梁松を介して縑帛で招こうとしたが、鄭衆は「太子は外交すべきでなく、藩王も私に賓客と通じるべきでない」と拒み、梁松の重ねての誘いにも節義を守って死ぬ方がよいと答えた。太子・劉荊はこれを聞いて奇とし、強いなかった。のち梁松が誹謗の罪で獄死した際、賓客の多くが連座したが鄭衆は難を免れた。
  • 永平初め、司空府に辟され越騎司馬などを歴任。永平八年、顕宗(明帝)の命で北匈奴に使者として赴き、単于への拝礼を拒んで囲まれ、水火を絶たれて脅されても刀を抜いて自ら死を誓い、屈しなかった。単于は恐れて許した。
  • 帰国後、朝廷が再び北匈奴へ使者を送ろうとした際、鄭衆は「南単于や西域諸国の離反を招く」として反対したが容れられず、再度使者に立たされた。今度は単于の恨みを買い凌辱される恐れがあるとして固く諫めたため帝の怒りを買い、召還されて廷尉に繋がれたが赦されて帰った。のちに匈奴から来た者が、鄭衆の使者としての気概を蘇武にも劣らないと語ったため、再び軍司馬に召され、虎賁中郎将馬廖と車師を撃ち、敦煌に至って中郎将・西域護に任じられた。匈奴が車師を脅し戊己校尉を囲んだ際には兵を発して救った。
  • のち武威太守・左馮翊を歴任し、建初六年、鄧彪に代わって大司農となった。粛宗(章帝)が塩鉄官の復活を議した際、鄭衆は不可と強く諫め、詔で厳しく責められても意見を曲げなかった。清正の評があった。詔により『春秋』の刪定十九篇を作り、建初八年、在官のまま没した。子の安世も家業を継ぎ長楽未央廐令となり、延光年間、安帝が皇太子を廃して済陰王とした際、太常桓焉・太僕来歴らと共に諫争した。順帝即位の時には安世は既に没していたが銭帛を追賜され、子の亮が郎とされた。鄭衆の曾孫鄭公業には別伝がある。