後漢書卷六十五 張曹鄭列傳第二十五 鄭玄

経学を大成した大儒

  • 鄭玄、字は康成。北海高密の人。八世祖の崇は哀帝期の尚書僕射。若くして郷嗇夫となるも学問を志し、太学で第五元先に京氏易・公羊春秋・三統暦・九章算術を学び、張恭祖に周官礼・礼記・左氏春秋・韓詩・古文尚書を学んだ。
  • 扶風の馬融に師事するも3年間対面を許されず高弟から学び、最終的に融の諸生との図緯論議の場で算学の才を認められ問答の末、融に「鄭生今去りて吾が道は東に行くだろう」と評された。
  • 党錮の禁で禁錮された14年間、閉門して経業を修め、何休の公羊学(『公羊墨守』『左氏膏肓』『穀梁廃疾』)に対し反論を著し、何休をして「康成は我が室に入り我が矛を執って我を伐つか」と嘆じさせた。
  • 大将軍何進の招聘を受け一泊で辞去する謙抑、国相孔融が高密県に「鄭公郷」を特設した逸話、董卓の遷都後も招聘を辞退し徐州で陶謙の礼遇を受けた逸話などが伝わる。
  • 病篤くなった際、子の益恩に宛てた誡子書が長文で伝わる。貧しい家に生まれ諸国を巡歴し学問を修めた半生、党禁後の招聘をすべて辞退した理由(「先聖の元意を述べ百家の不斉を整えることに専心したい」)、老いてなお学問に励む決意、そして未完成の墓、腐朽しかけた蔵書の伝授先への憂いなどが記される。
  • 袁紹の招宴で「儒者未だ通人と許さず」と侮る客人たちを問答で圧倒し嘆服させた逸話、応劭が師事を申し出た際「顔回・子貢の徒は官爵を誇らなかった」と応じ恥じ入らせた逸話が伝わる。大司農に召されるも病を理由に辞し、建安5年、袁紹の子・譚に軍への随行を強いられる中、元城県で病篤くなり74歳で没した。薄葬を遺言し、門生千余人が喪服で葬儀に参列、『鄭志』8篇を編纂した。
  • 『周易』『尚書』『毛詩』『儀礼』『礼記』『論語』『孝経』『尚書大伝』『中候』『乾象暦』の注釈、『天文七政論』『魯礼禘祫義』『六蓺論』『毛詩譜』『駮許慎五経異義』『答臨孝存周礼難』など百余万言の著作を残し、「純儒」と称された。子は益恩のみで、益恩は孔融の招きで孝廉となり黄巾の乱で戦死、遺腹の孫・小同(後の高貴郷公時代の侍中)が家を継いだ。

史論(鄭玄)

  • 論じて言う。秦の焚書以来、経学は各家各説に分裂し百余万言に及ぶ章句が乱立していたが、鄭玄は大典を括嚢し衆家を網羅、繁蕪を刪り漏失を改め、学者に帰趨を示した。史家(范曄)の祖父・范寧も鄭学を最も重んじ、門下に専ら鄭氏家法を伝授したという。
  • 賛に曰く。富平侯(張安世)の家業は代々継がれ、伯仁(張純)が先んじて宗廟の祭祀を整えた。鄭玄が経義を定め、曹褒が礼を修めようとしたが、孔子の書(六経)はついに明らかになったものの、漢の礼典は中途で頓挫した、と。