後漢書卷六十五 張曹鄭列傳第二十五 曹褒

『漢礼』を編纂した太常

  • 曹褒、字は叔通。魯国薛の人。父の充は慶氏礼を伝え、建武中、封禅の礼制定に携わり「大漢は独自に礼を制すべし」と顕宗に説いた(図讖を引き「漢世に礼楽文雅出づ」の予言を根拠とした)。褒は幼くして父の学を継ぎ、圉令として「絶人命者天亦絶之」の理念で盗徒への死刑執行を拒み、太守馬厳の弾劾で免官された逸話が伝わる。
  • 博士を経て、肅宗(章帝)が図讖(「赤九会し昌え、十世にして光り、十一にして興る」)に基づき礼楽制定を望んだ際、太常巢堪の反対(「一世の大典は褒の任にあらず」)を退け、褒に編纂を命じた。褒は叔孫通の『漢儀』12篇を基に、五経讖記を交え、天子から庶人までの冠婚吉凶の制度を百五十篇にまとめ上奏した。
  • しかし衆論が一致せず正式採用には至らず、和帝即位後に『新礼』2篇を追加、監羽林左騎、射聲校尉を歴任するも、太尉張酺・尚書張敏らが「漢礼を擅制し聖術を乱した」と弾劾、刑死こそ免れたものの『漢礼』は結局施行されなかった。
  • 射声営で放置された未葬の棺100余を自ら葬り祭った逸話、河内太守として飢饉・疫病対策で治績を挙げた逸話が伝わる。永元14年、官のまま没し、『通義』12篇・『演経雑論』120篇・『伝礼記』49篇を著し慶氏学を後世に伝えた。

史論(張純・張奮・曹褒)

  • 論じて言う。漢初、叔孫通の礼制は疎略で、賈誼・董仲舒・王吉・劉向らが憤慨し改定を訴え続けたが実現しなかった。肅宗の代、曹褒の編纂による国憲確立は盛徳の事であったが、帝の崩御と張酺らの弾劾により道は再び頓挫した。五帝三王が礼楽を代ごとに改めた通り、時代の変化に応じ制度を損益するのは世主の務めであるはずが、と嘆く。