誅殺を謀った反乱の末路
- 周章、字は次叔。南陽随の人。郡功曹として、竇憲が封国に退いた際も太守が私的に謁見しようとするのを馬の鞅を切って諫めた剛直な逸話が伝わる。孝廉を経て五官中郎将、太常、司空を歴任。
- 和帝崩御後、鄧太后が病弱な皇子勝を退け殤帝を立てた経緯、殤帝崩御後の後継争い(勝を推す声に対し太后が清河孝王の子・祐=安帝を擁立)を巡り、章は密かに宮門を閉ざし車騎将軍鄧隲兄弟・鄭衆・蔡倫の誅殺と太后の廃位、平原王勝の擁立を謀ったが発覚し、自殺に追い込まれた。家に財産は残らず、子らは着替えるほどの服もない困窮の中で世を去ったという。
史論(周章)
- 論じて言う。孔子の「共に立つべきも共に権(臨機応変)を計るべからず」との語を引き、周章の企ては「常に反する事」を「非常の会」なくして企てたものであり、成算のないまま覇業を望んだ点で悖理であったと評す。
- 賛に曰く。朱浮は北州を定めながらも寵の怨みを激成した。馮魴は降虜を用いた。虞延は囚人に感じられ帰らせた。鄭弘は竇氏と怨みを結んだ。周章は道に反し、小智で大謀を企てたと。