経学に通じた重臣
- 樊儵、字は長魚。父の風を継ぎ質素で母への孝を尽くした。侍中丁恭に公羊厳氏春秋を学ぶ。建武年間、諸王が外戚を招く中でも儵は交わりを避け、沛王輔の事件でも連座を免れた。
- 光武帝崩御時、復土校尉を務め、永平元年、長水校尉として郊祀の礼儀を公卿と定め、周澤・承宮ら大儒を朝廷に招くべきと建言、孝廉選挙の基準是正や刑罰の秋季執行の原則も進言し明帝に容れられた。
- 廣陵王荊の謀反事件で、任隗と共に獄を裁き誅殺を奏請、明帝の「私の弟だからと誅殺を求めるのか」との怒りに対し「天下は高帝の天下、陛下一人の天下にあらず」「春秋の義で君親に将(弑逆の謀)あれば誅す」と周公が管叔・蔡叔を誅した故事を引いて答え、帝を感服させた。
- 弟の鮪が子の妻に楚王英の娘を望んだ際、「一族すでに5侯を得ている、これ以上の栄寵は禍を招く」と諫めたが聞かれず(実際に楚王事件に連座せずに済んだのは儵の生前の諫言のおかげとされた)。永平10年、儵は没し哀侯と諡された。子の梵は財産2千余万を兄の子に譲る清廉さで知られた。儵は『公羊厳氏春秋章句』を刪定し「樊侯学」と称され、弟子の李脩・夏勤らは三公にまで至った。