後漢書卷六十下 郎襄列傳第二十下 襄楷

桓帝への諫言

  • 襄楷、字は公矩。平原隰陰の人。天文陰陽の術に通じた。桓帝の宦官専政・刑罰の濫用・皇子の相次ぐ喪失に伴う災異の頻発を憂い、延熹9年に上疏。
  • 熒惑(火星)・太白(金星)が太微・房心に入った異変を「天子に凶あり、継嗣なし」の兆しとし、鄧皇后誅殺前の同様の異変(延熹元年冬の熒惑・歳星の軒轅侵入)を引いて警告。当時の竹柏の傷み・洛陽の怪火の噂も凶兆として言及。
  • 太原太守劉瓆・南陽太守成瑨が豪強・外戚の不正を摘発して処罰されたのに対し、宦官の讒言でかえって死罪となった事件を批判し、梁冀一族・宦豎の讒言による誅殺の連鎖(梁冀・寇栄・孫寿・鄧万世ら一族誅滅、李雲・杜衆の処刑)を「殺無罪誅賢者」として強く非難し、寃罪による疫病の流行を訴えた。
  • 文王が10子を得た故事を引き、後宮の人員削減と徳政による子孫繁栄を勧めた。延熹7年の河内での龍の死、扶風での隕石なども凶兆として詳述し、秦の始皇帝の「祖龍死」の故事、宋の隕石5個の故事、春秋の記録を引いて「大喪あるいは叛逆」を警告。太学の門の自壊、河水の清澄化なども異例の凶兆として付記した。
  • 琅邪の宮崇が于吉から得た神書『太平清領書』(後の太平経)を献上したが顧みられなかったことに触れ、これに順帝が従わなかったため継嗣が興らなかったのだと論じた。冲帝・質帝の短命も、天が正道に反する好みを罰した例として、周衰の力士たち(夏育・宋万・彭生ら)や殷紂の妲己、葉公好龍の故事を引いた。
  • さらに宦官が「常伯(侍中)」の位を占めることを天意に反すると批判し、宮中に立てられた黄老・浮屠(仏陀)の祠についても「清虚無為の道に反して嗜欲・殺伐を続けるのは道理に合わない」と論じ、仏陀が桑下に3宿しない禁欲の逸話や、天神が捧げた美女を「革嚢盛血」として顧みなかった逸話を引いた。
  • 帝に召され対問された際、宦官の起源(武帝末期に始まった制度に過ぎない)を説明し、繁殖した宦官の弊害を訴えたが、尚書は「宦官は張澤・趙談ら漢初の功臣にも例がある」として楷の言を「析言破律、誣上罔事」と弾劾、洛陽獄に下されるも、天文に基づく直言と認められ死罪を免れ、司寇(2年刑)に処された。
  • 順帝期に宮崇が献じた于吉の神書百七十巻(『太平清領書』)は当時「妖妄不経」として蔵に収められたが、後に張角がこの書を用いたという。霊帝即位後、楷の言は正しかったとされ、大傅陳蕃の推挙にも応じず、中平年間に荀爽・鄭玄と共に博士に召されるも赴かず家で没した。

史論(総括)

  • 論じて言う。「天を善く語る者は必ず人に験あり」との古語通り、張衡も天文暦数陰陽占候は当世の急務と述べた。郎顗・襄楷は天象を仰ぎ人事を察して禍福を明らめ、経義に基づく助言も明快であった。ただしその弊は巫術を好みすぎる点にあり、君子はこれを専心すべきでないとされる。
  • 賛に曰く。楊仲桓(楊厚)は術深く朝廷にたびたび招かれた。蘇竟は書を飛ばして旧郡(陰県、南陽)を清めた。襄楷・郎顗の災異戒めは、まさに政の乱れに由来するものであった。