後漢書卷六十下 郎襄列傳第二十下 郎顗

郎宗――占験を恥じた呉令

  • 郎顗の父。字は仲綏。京氏易を学び風角・星算・六日七分の術に精通した。安帝の対策で諸儒随一と評され呉令となる。暴風から京師の大火を予知し的中させたが、占験で名を知られることを恥じ、召命の夜に印綬を県庁に懸けて出奔、終身仕えなかった。

災異七事の上疏

  • 郎顗、字は雅光。北海安丘の人。父の学を継ぎ海辺に隠居して数百人に教授、経義と占象を昼夜研鑽した。順帝陽嘉2年正月、召されて上疏し、災異は政の変によって消えると説き、園陵の相次ぐ火災(陽嘉元年冬の恭陵百丈廡、永建元年秋の茂陵園寝)や西苑・太学の造営を戒め、盤庚の遷都、禹の卑室、魯の長府の故事を引いて倹約と貧民救済を勧めた。
  • 続けて「立春後の異常な寒さは刑罰が過酷なため」「熒惑(火星)が軒轅・輿鬼を巡り異常な動きをしているのは礼が失われているため」など天文の異変を政治批判に結びつけ、三公の怠慢や州郡の不良な人選を厳しく指摘した長文の上奏を行った。
  • 尚書での再対問に応じ、条便宜七事として詳細を上奏。
  • 恭陵などの火災は宮殿の過剰な造営が招いたもので、繕修費を減らし貧民救済に充てるべき。
  • 三公に実徳がなく「有貌無実」の佞人であるため寒温の異変が続いている、賢臣登用を求める。
  • 「三五復反」の理に基づき、今年は少陽の年で災いが起こりやすく、今春旱・今夏水害が予想される、文帝の倹約に倣うべき。
  • 皇太子(儲君)が未定で熒惑の運行に乱れがあり、後宮に人材が滞留しているのが天意に反する、宮女を減らし婚姻を許すべき。
  • 西方に白気が現れた異変は関西・趙魏に羌族の反乱を予兆する、租税軽減と防備を求める。
  • 白虹貫日は司徒(当時劉崎)の失政を示す、司徒を黜けるべき。
  • 漢興以来339年、文帝の肉刑廃止から300年の節目にあたり、法令・官名の改革、改元、賢者登用を行うべき。
  • 台(尚書台)から「変常」と「改旧」の矛盾を問われると、顗は「立春後も秋冬の政(厳しい取締)を続けることが変常の咎である」と応じ、五徳終始説(3百4歳で一徳、5徳で1520歳)に基づき改元の正当性を論じた。
  • さらに黄瓊・李固の登用を薦める上書を行い、清廉高潔で変異に明るい黄瓊、游夏の芸・顔閔の仁を備えた李固の才を称え、両者を京師に召すべきと説いた。加えて便宜四事を追加上奏。
  • 天文の異変(月・日の光の翳り)は朝廷の政の緩みによるもの、賞罰を明らかにすべき。
  • 雷の発生時期(大壮の卦)と災異の関係を説き、酷吏を斥け寛政を敷けば雷が正常に発する。
  • 太白と歳星が房心で合したのは陰が陽を凌ぐ兆し(臣下専権)、明堂布政を正すべき。
  • 陽の徳が施されず西風が続き旱の兆しがある、賞罰と孤寡救済を急ぐべき。
  • 上疏は特に詔で郎中に任じられたが、顗は病と称して辞し帰郷。同年4月、洛陽で地震(陽嘉2年4月己亥)と地陥(6月丁丑)が起こり、その夏大旱、秋には鮮卑の馬邑侵攻・代郡陥落、翌年の西羌隴右侵攻など、いずれも顗の予言通りとなった。後に再度召されるが応じず、同郡の孫礼という凶暴な人物に交誼を拒んだことから恨みを買い殺害された。