災異を読んだ侍中
- 楊厚、字は仲桓。父統の後妻の子・博との不和を憂い、9歳で断食して両親の和解を促した孝行の逸話が伝わる。父の学を継ぎ精力的に学問に励んだ。
- 安帝永初2年、太白が北斗に入り洛陽が大水に見舞われた異変に際し、老いた父統に代わり答申し「諸王子の京師滞在は非常の事態を招きかねない、速やかに帰国させるべき」と進言、太后はこれに従い、星の異変も予言通り収まった。中郎に任じられるも図讖問答が意に沿わず免官された。
- 順帝永建2年、召還され「漢の三百五十年の危機」(讖緯による予言)を説き、法制改革・災異への対処を含む5事を上疏、議郎・侍中を歴任。順帝4年、「今夏は厳寒で疫病・蝗害が起こる」と予言し的中(6州で大蝗害)。以後も西北の兵乱の予兆を上言し、順帝の西巡狩を中止させた。
- 陽嘉~永和年間、西羌の隴右侵攻、烏桓の耿曄包囲、洛陽の洪水(千余人死亡)、承福殿の火災(太尉龎参免官)、荊交二州の蛮夷反乱、外戚・宦官の禍(宋阿母と李元の姦通事件、張逵らの梁商誣告事件)など、数々の災異を予言し的中させた。
- 大将軍梁冀が贈物で懐柔しようとしたが、厚は病と称して固辞し帰郷、黄老を修め3千余人に教授した。太尉李固の推薦や梁太后の礼を尽くした招聘にも応じず、建和3年、82歳で家で没した。門人が廟を建て、州の文学掾史が春秋の饗射の際に常に祭祀を行ったという。