図緯に通じた学者太守
- 蘇竟、字は伯況。扶風平陵の人。平帝の時、易学に明るく博士・講尚書祭酒となり、図緯・百家の言に通じた。王莽期は劉歆らと校書に携わり代郡中尉(都尉)に。匈奴の侵攻が続く中でも代郡を保ち、光武帝即位後は代郡太守として塞を固めた。
- 建武5年、盧芳の侵攻に伴い病のため兵を隨弟に委ね帰京・謝罪、侍中に任じられるも数月で病により免職。
- 延岑の護軍鄧仲況が南陽陰県で反乱、劉歆の兄の子・劉龔がその謀主となっていた際、竟は南陽で龔に長文の書簡を送り翻意を促した。書中では図讖・五星の占験を引き「漢の火徳は必ず明らかになる」「王莽は身を裂かれて滅んだ」ことなどを説き、周公・康叔、景帝・済北王の故事に触れながら降伏を勧めた。屠羊説や茅焦の忠義の故事を引き「利を求めるにあらず、忠を尽くすのみ」と結んだ。この説得により鄧仲況・劉龔は降伏した。
- 竟は自らの功を誇らず、道術を楽しみ『記誨篇』などの著作を残し70歳で家で没した。
楊統――家学を継いだ図讖の士
- 楊厚の父。祖父の楊春卿は図讖に通じ、公孫述配下として漢軍と戦い自殺する際、子の統に「綈袠中の祕記を修めよ」と遺言した。統は喪明けに犍為の周循に学び、鄭伯山から河洛書・天文推歩の術を受けた。
- 彭城令として大旱の際に陰陽の理で雨を求め成果を挙げ、以後朝廷の災異諮問に応じた。『家法章句』『内讖』二巻を著し、光禄勲・国の三老を経て90歳で没した。