後漢書卷五十九 申屠鮑郅列傳第十九 郅惲

出自

  • 郅惲、字は君章。汝南西平の人。12歳で母を失い喪に過礼を尽くし、長じて『韓詩』『厳氏春秋』を修めた。
  • 天文暦数に明るく、王莽時に寇賊が多発した際、天象を観て「鎮歳・熒惑がともに漢の分野・翼軫にあり、漢は必ず再受命する」と友人に語った。

王莽への直言

  • 左隊大夫・逯並に「伊尹に倣い天人の変に応じたい」と説き、逯並は吏に署そうとしたが、惲は「文王・高宗・桓公が師相仲父を吏の位に処さなかった」として就かず、長安に上って王莽に上書した。
  • 上書は「劉氏は天命を永く享け、陛下は盛衰を順って之を還すべき」と説き、莽に禅譲を促す内容であった。
  • 莽は大怒し詔獄に下したが、経讖に拠った論であり害しかね、狂病と偽らせようとしたが惲は「陳べたことはすべて天文聖意であり狂人の作ではない」と拒み、獄に繋がれ冬の赦で出された。
  • その後、同郡の鄭敬と蒼梧に南遁した。

積弩将軍傅俊への諫言

  • 建武3(27年)年、廬江で積弩将軍傅俊に迎えられ将兵長史となり、軍規を誓わせた(人を掩わず、支体を断たず、形骸を裸にせず、婦女を犯さず)が、軍士がなお冢を暴き民を掠めた。
  • 惲は俊に対し、文王が白骨を露わすことを忍びなかった故事、武王が天下を一人の命に易えなかった故事を引いて諫め、俊はこれに従い、士卒に傷者を収め死者を葬らせ哭させた。
  • 建武7(31年)年、俊は京師に戻りその功を上奏したが、惲は軍功で位を得ることを恥じ辞して郷里に帰った。

友人董子張のための報讐

  • 郷里で県令が礼を尽くし門下掾としたが、友人董子張の父が郷人に殺され、子張が病死に際しなお仇を報いられぬことを悲しんだため、惲は自ら仇人を斬りその首を子張に示した。子張はこれを見て息絶えた。
  • 惲は自首したが、令は応対を遅らせた(自首を望まぬため)。惲は「友のために讐に報いるのは吏の私事、法を奉じ阿らぬのは君の義。君を虧いて生きるのは臣節ではない」と趨って獄に就こうとした。令が抜刀して自ら刎ねようとしてまで惲を止め、惲はようやく獄に赴くのを止めた。

太守欧陽歙のもとで、督郵繇延の罪を糾弾

  • 太守欧陽歙に請われ功曹となる。汝南の旧俗の10月の享会で、歙が西部督郵の繇延の功を称え衆儒とともに顕彰しようとした際、惲は下坐から進み出て「延は外方内員(外は方直に見えて内は柔弱、朋党を構え上を罔き人を害す)である。明府が悪を善として股肱に用いるのは君も臣もないに等しい」と觥を奉じて弾劾した。
  • 歙は色を失い言葉に窮したが、門下掾の鄭敬が「君明臣直は明府の徳、觥を受けずともよい」と取りなすと、歙は「実に歙の罪である」と認め觥を受けた。
  • 惲は舜が四凶を流した故事、讒言が用いられなければ股肱が輔けるとの『尚書』の言を引き、自らも不忠の讒(繇延)を顕彰させた罪として惲・延ともに収めて好悪を明らかにするよう請うたが、歙は「これは重ねて吾が過ちとなる」として宴を止めて散じた。

友人鄭敬との別れ

  • 惲は病と称して府に帰り、延も自ら退いた。鄭敬は惲の言が歙の意に忤ったことを見て、ともに去るよう誘ったが、惲は「延は今去っても勢いは必ず戻る」と述べ、なお諫言の道は三代の道であり、道が異なる者とは相謀らないとした。
  • 孟軻が「君の不能を強いる」との言(『孟子』)を引き、自らは既に朝廷で君を諫めた以上、死をもって職を全うすべきだとした。延が退き惲もまた去ることとなったが、鄭敬は隠棲を続けた。
  • 数月後、歙は再び延を召し、惲はここで去ることを決意し、敬に従い漁釣を楽しんだが、なお志は従政にあり、敬と別れて出仕した。

光武帝への直諫

  • 江夏に客居し孝廉に挙げられ上東城門候となった。光武帝が夜猟から帰った際、惲は関を拒んで開かず、帝は東中門から入った。
  • 翌日、惲は上書し「文王も敢えて槃遊を極めなかった」と諫めた。帝は布百匹を賜ったが、東中門候を貶め参封尉とした。
  • 後に皇太子に『韓詩』を侍講し、郭皇后が廃された(建武17年)際、惲は帝に「夫婦の好みは父も子に制御させられぬもの、臣がどうして君に制御させられようか」と語り、天下の議を招かぬよう願うのみとした。帝は「惲は善く己を恕して主を量る」と評した。
  • 郭皇后廃位後、太子(後の明帝)が不安を抱いた際、惲は「高宗・吉甫の例(継母により孝子が放逐された故事)を引き、母は子によって貴しとする春秋の義に従い、自ら愆を引いて退くべき」と説き、太子はこれに従い、帝も許した。

長沙太守

  • 長沙太守に再遷。孝子・古初が父の喪に際し隣家の火事で柩の上に伏し身を挺して火を防いだ逸話を挙げ、これを首として挙賞した。
  • 後に事に坐し芒長に左遷され(前長沙太守張禁の贈賄を弾劾しなかった罪とされる)、免職後は隠遁し教授した。著書8篇。病により卒した。子は郅寿。

郅惲の子――郅寿

  • 郅寿、字は伯孝。文章に優れ廉能で称され、孝廉に挙げられ冀州刺史に遷った。冀部の諸王賓客の放縦を厳しく取り締まり、部従事・督郵を王国に常駐させ王の罪を随時上奏し傅相を弾劾した。藩国は畏懼し3年で冀土は粛清された。
  • 尚書令に遷り、肅宗はその智策を奇として京兆尹に抜擢した。三輔の強豪姦暴を威厳と誠実で治め、公事で免ぜられ再び尚書僕射に召された。

郅寿――竇憲との対立

  • 大将軍竇憲が外戚の寵で権勢を振るう中、竇憲の門生が請託の書を持参すると、寿はこれを詔獄に送り、竇憲の驕恣を陳べる上書を重ねて王莽を例に国家を戒めた。
  • 竇憲が匈奴征討中で財政が窮乏する中、竇憲・篤・景の兄弟が驕奢に第宅を興したことを厳しく譏刺したため、竇憲は怒り、寿を公田を買った誹謗の罪に陥れ誅殺を図った。
  • 侍御史何敞が上疏して弁護し、「聖王は四門を闢き諫を聴く。寿が国家を安んずるため正議した罪は誅すべきものではなく、誹謗の誅を行えば天下は国家が忠直を横罪すると見る」と説いた。
  • 上疏により郅寿は減死で合浦に徙されることとなったが、未行のうちに自殺した。家属は郷里に帰ることを許された。

賛曰

  • 「鮑永は沈吟しつつ晩に正に帰り、志を達し義を全うして先には号泣し後には慶事を得た。申屠剛は対策し郅惲は上書した。道あれば直く、道なくとも愚かではなかった」と評した。