出自
- 鮑永、字は君長。上党屯留の人。父の鮑宣は哀帝の時、司隸校尉として王莽に殺された。
- 鮑永は少くして志操あり、『欧陽尚書』を学んだ。後母に孝を尽くし、妻が母の前で犬を叱っただけで妻を去らせた。
王莽期
- 郡功曹となる。王莽は鮑宣の不服従を理由にその子孫を滅ぼそうとし、都尉の路平が意を汲んで永を害そうとしたが、太守の苟諫が保護し府に置いた。
- 永はしばしば漢室復興・簒逆討滅の策を諫に献じ、諫は「君長よ、事の秘密は保たれず、禍は人の門に近づく」と警告した。
- 諫の死に際し、永は喪を扶風に送り届けた。路平は永の弟・升を捕えたが、太守の趙興は「鮑宣は節を立てて死んだのに、その子を害してよいものか」と嘆き、升を釈放させ、永を功曹に復させた。
- 侍中を偽称して伝舎に泊まる者を、興が謁見しようとした際、永はこれを詐りと見抜き諫めたが聞かれず、興が赴くと永は仏刀で馬の匈当(胸当て)を截り止めた。数日後、莽の詔書が届き、偽称した者を捕えるよう命じており、永はこれにより知名した。
更始・光武帝への帰順
- 秀才に挙げられたが応じず、更始2(24年)年に尚書僕射に再遷し、大将軍事を代行して河東・并州・朔部を安集する節を持ち、青犢を撃破し中陽侯に封じられた。
- 将であっても車服は質素で道路で識別された。
- 更始が赤眉に殺され三輔への道が絶たれた後、光武帝が諫議大夫・儲大伯に節を持たせ永を召したが、永は疑って従わず大伯を拘束した。
- 更始の死を確認した後、大伯らを釈放し将軍・列侯の印綬を悉く返上し、幅巾のまま同心の客百余人と共に河内に至った。
- 光武帝の問いに、永は「更始に事えて衆を全うできなかった。富貴を望んだと恥じ入り、すべて兵を罷めた」と叩頭して答えた。
- 帝が懐の攻略に苦戦する中、永を先発させ懐の更始の河内太守を説得させ降伏させた。帝は大いに喜び洛陽商里の宅を賜ったが永は固辞した。
魯郡太守・揚州牧
- 董憲の裨将が魯で百姓を害するため魯郡太守を拝し、これを大破し数千人を降した。別帥の彭豊・虞休・皮常らは降らなかった。
- 孔子闕里の荊棘が自ずから除かれる怪異があり、永はこれを機に郷射の礼を行い豊らを招いて誅殺した。
- 帝はその功を嘉し関内侯に封じ、揚州牧に遷した。南土の寇暴を緩やかな政で鎮撫し、彊横を誅しつつ余を安んじた。
- 母の喪に遭い財産をすべて孤弟の子に与えた。建武11(35年)年、司隷校尉に召された。
司隸校尉として、趙王良を弾劾
- 帝の叔父・趙王劉良が尊戚として貴重であったが、永は事をもって良を大不敬と劾した。
- これにより朝廷は粛然とした。扶風の鮑恢を都官従事に辟し、恢もまた抗直で彊禦を避けなかった。帝は「貴戚もまさに手を斂めてこの二鮑を避けるべし」と語ったという。
- 永は霸陵を巡行中、更始の墓を通り過ぎる際、下馬して拝礼し哭した(従事の制止に対し「かつて北面して事えた者、墓を過ぎて拝さぬのは司隷であっても避けられぬ」と答えた)。西へ扶風に至り、太守・苟諫の冢に牛を捧げた。
- 帝はこれを不快に思ったが、太中大夫張湛が「仁は旧を遺さず忠は君を忘れぬのは行いの高きもの」と弁護し、帝の意は解けた。
- 後に大司徒韓歆が事に坐した際、永が固く執成を請うたが叶わず帝の意に忤い、東海相に出された。度田事の不実で徴されたが、詔により兗州牧に転任し、在職3年で病没した。
論曰
- 鮑永は故主(更始)への義を守りながらも新主(光武帝)に事えることができ、自らの功による寵を受けることを恥じたことで大寵を受けるに至った、と評した。言うことは誠実でも聞かれぬことがあるのは、諂う者は入りやすく剛直な者は進みにくいためであり、利を捨て道に従い、方を居として義に従うのが君子の概であると総括した。
鮑永の子――鮑昱
- 鮑昱、字は文泉。父の学を受け東平で客授した。建武初め、太行山中の劇賊を太守戴渉の要請で討伐し名を挙げた。泚陽長として仁愛の政を敷いた(趙堅の一件で慈悲深い裁定を下した逸話がある)。
- 荊州刺史がこれを上表し、中元元年に司隷校尉を拝した。封胡降檄の際、光武帝の問いに「通官の文書は姓を著さず司徒のみ露布とする慣例に反する」と答え、帝はこれを喜んだ。
- 永平5年、火事の遅参で免ぜられたが後に汝南太守となり、水利事業(方梁石洫)を興し漑田を倍増させ人々を富ませた。
- 建初元年、司徒に代わり、大旱に際し肅宗の問いに「聖人が国を治めるには3年で成るもの。今陛下即位したばかりで失政による異常とは言えない。ただ楚王英の獄で寃罪が多かったことが原因ではないか」と対策を進言、還すべき徙者・蠲除すべき禁錮を挙げた。
- 帝はこれを納れた。建初4年に太尉となり6年に薨じた。子・鮑徳。
鮑昱の子――鮑徳
- 鮑徳は志節に名があり、南陽太守として荒災の中で豊穰を保ち「神父」と称された。郡学が久しく廃れていたのを修め礼楽を興した。9年在職の後、大司農に召され卒した。子は鮑昻。
鮑徳の子――鮑昻
- 鮑昻、字は叔雅。孝義の節行があり、父の病臥に数年間仕え、喪中は毀瘠して3年抱負した。喪明けて墓次に潜み世務に関わらず、孝廉に挙げられたが応じず家で卒した。