後漢書卷五十九 申屠鮑郅列傳第十九 申屠剛

出自

  • 申屠剛、字は巨卿。扶風茂陵の人。7世祖の申屠嘉は文帝の時に丞相となった。質性は方直で、常に史鰌・汲黯の人となりを慕った。
  • 郡功曹に仕える。平帝の時、王莽が専政し朝廷は猜忌に満ち、帝の外家である馮氏・衛氏二族は交官を絶たれた。申屠剛は常にこれを疾んだ。

賢良方正の対策

  • 賢良方正に挙げられ、対策で「王事失えば神祗怨怒し陰陽謬錯する。今、朝廷が功徳を考えず虚しく毀誉を納れ、詔書を重ね誹謗を禁じ、論議の罪の重きは腰斬に至り、忠臣の情を傷つけ直士の鋭を挫く」と論じた。
  • 成王幼少にして周公が摂政した際、賢を用い新旧を分けなかった故事(尚書大伝)を引き、召公が悦ばず四国が流言した経緯にも触れた。
  • 平帝が9歳で即位し外戚と分離されている現状を「漢家の制は親疎を交錯させ宗廟社稷を安んずるもの」と批判し、馮氏・衛氏の登用を求めた。
  • 周公が伯禽を魯に封じ恩を割いて後に加えなかった故事、霍光が忠直の名を得ながら宗党を尊崇し外戚を摧抑し滅門に至った故事を引き、当時の保傅が周公の位にありながら真の周公に及ばないことの危うさを説いた。
  • 損益の際(孔子の歎)、持満の戒(老子)を引き、功が天下に冠たる者は安からず、威が人主を震わす者は全からずと述べた。
  • 衰乱の後を承け、賦斂・苛吏・盗賊・訛言(積弩が宮に入るとの噂)の横行を挙げ、六極の効(尚書大伝)が累卵より危ういと警告した。
  • 中山太后(馮氏)を京師に召し馮氏・衛氏に冗職を与え宿衛させることで未然の患を防ぐべきと提言した。
  • 書は元后(王莽の姑)により却下され、「僻経妄説」として罷免され田里に帰された。

隗囂への説得

  • 王莽簒位後、剛は河西を避け巴蜀に転じ20余年放浪した。隗囂が隴右に拠り公孫述に附こうとした際、剛はこれを諫めた。
  • 「人の帰する所は天の与うる所、人の畔く所は天の去る所」とし、光武帝(本朝)が聖徳をもって義兵を挙げていることを述べ、隗囂に漢との協力を勧めた。
  • 「勇士は死を賭して信を守る」譬え(羊角哀・左伯桃の故事)を引き、疑いを久しくすることの危険を説いたが、隗囂は聞かず公孫述に従った。

建武7年の書簡、光武帝への諫言

  • 建武7(31年)年、剛は召還されようとしたが、隗囂に帰服を促す書を送った。「専己は孤を招き、諫めを拒めば塞がる」と述べ、聖人は独見を明とせず万物を心とすると諫めた。
  • 東方が治まり百姓が安んじている一方、西州の発兵は民の懐憂と懼れを招くとし、離道逆情で国家を保った例はないと説いた。天が助けるのは順なる者、人が助けるのは信なる者とし(『易』繋辭)、隗囂が漢に降らねば身を滅ぼすと警告した。
  • 隗囂はこれも聞かなかった。剛は帰還し侍御史を拝し尚書令に遷った。

光武帝への直諫

  • 光武帝が遊猟に出ようとした際、剛は隴蜀未平を理由に諫め、頭で乗輿の輪を軔(とど)め、帝はついに取りやめた。
  • 当時、内外群官の多くを帝自ら選び、法理が厳しく尚書近臣も捶撲されるほどだったが、群臣が誰も諫めない中、剛だけは極諫を続けた。
  • また皇太子に東宮に就かせ賢保に育てさせるべきとしばしば言上したが、帝の意に反したため数年で平陰令に出された。後に太中大夫に召されたが、病により官を辞し家で卒した。