後漢書卷五十八下 馮衍傳第十八下 馮衍

馮衍――建武末、自陳の上疏

  • 建武末、馮衍は上疏し自らの境遇を陳べた。高祖の下で陳平が謀を用いた例(毀れば疎まれ誉むれば親しまれた)、文帝の下で魏尚が忠を尽くしながら法により罪とされかけた例(馮唐の諫めで赦された)を引き、時と人によって忠が罪ともなり功ともなることを述べた。
  • さらに董仲舒が公孫弘に妬まれた例、李広が衛青に排された例(匈奴討伐で失道し自刎した)を挙げ、忠臣がしばしば涙を流す所以とした。
  • 自らは魏無知の推挙も馮唐の弁護もなく、董仲舒の才も李広の勢もない微賤の身であるとし、免罪を得るのは難しいと嘆いた。
  • 祖父・馮参が王氏五侯に節を屈しなかったため一門の禍を招いたこと(馮参の姉が中山王太后、のち哀帝の祖母・傅太后に大逆の罪を着せられ、馮参は自殺し親族17人が死んだ)を述べた。
  • 自らは兵革の際にあっても邪な利を求めず、衛尉陰興の周到さを頼みとしたが、陰興から本業への財産の提供を辞退したこと(『論語』の「益者三友・損者三友」を引き、三損の地に処することを恐れたためとする)を語った。
  • 更始の太原で20余年財を扱う地位にありながら家産は日々狭まり貧しくなったこと、今清明の世に至ってなお怨讐と譏議にさらされることを嘆いた。上書は聴かれず、以前の過ちのまま用いられなかった。

馮衍――志を得ず、賦を作り自ら論ずる(序)

  • 用いられず、退いて賦を作り自ら論じた。「玉のように碌碌でもなく石のように落落でもない(老子の言)、龍蛇のように時に応じて変化し一節を守らない」という生き方を自任した。
  • 用いられれば行い、捨てられれば蔵す(進退に定まった主張がない)とし、道徳の実を務め当世の名を求めないと述べた。
  • 卿大夫の家柄でありながら小利にこだわらず(伐氷の家は鶏豚の利を頼まぬの意)、20余年官にありながら財産は狭まり生活は貧しくなったことを繰り返し嘆いた。
  • 長子を失った悲しみにも触れた。曾祖父・馮奉世は右将軍として渭陵(哀帝陵)近くに葬られ、馮衍もその塋域近くの新豊の東・鴻門の上・寿安の中に一族の墓を定めたことを述べた。
  • 祖先の盛徳が禍によって荒廃したことを悲しみ、年老いてなお功業のないことを嘆き、田牧・孝道・宗廟祭祀を修めた後、孔老の論を観て松喬(赤松子・王子喬)のような福を求めたいと願った。
  • 隴阪に登り九州の山川・上古の得失の風を観て、道の陵遅・徳の分崩を悼み、賦を作って自ら励ますこととし、篇名を「顯志」と名づけた。

馮衍――顯志賦(前半・出発と嘆き)

  • 新豊を出て鎬京を彷徨い、飛廉観・平陽県を過ぎ悲哀に沈む場面から始まる。時俗の険しさと好悪の無常を悲しみ、衡石(度量衡)を棄てて権利に流れる世相、雷同して異を妬む風潮を嘆いた。
  • 先聖の論を敗り名賢の高風を陵ぐ世を批判し、大路をたどり孔徳の窈冥を歩む決意を語り、勁直な行いに恥じるところはないと自らを省みた。
  • 唐虞(堯舜)の世に及ばぬ生を憂え、往者は追えず来者は期せぬとし、名の称せられぬことを病んで逝きたいと願うほどの絶望を述べた(『論語』孔子の「没世にして名の称せられざるを疾む」を引く)。
  • 雍畤・略陽を過ぎ、人生の再びなきことを思い六親の遠さを悲しみ、九嵕山・&KR3056;嶭山に登り涇渭の水音を聞き、鴻門を顧みて夭折した子を悼んだ。
  • 自らの過去の判断の甘さを悔い、九死してもなお瞑れぬほどの怨恨を述べ、太行山・壺口山を眺めて祖先の丘墓の荒廃と昭穆の不栄を恨んだ(先祖の馮亭は韓の上党太守として趙に降り、上党に葬られたという)。

馮衍――顯志賦(中半・古の賢者への憧憬)

  • 伊尹が湯に70回説いて信を得た故事、皋陶が雷沢で虞舜に見出された故事を引き、自分にはそのような遭遇がないと嘆いた。
  • 韓盧(名犬)が抑えられ騏驥(駿馬)が繋がれる譬えで自らの高才の埋没を述べ、子貢の富よりも顔回の道を慕うとし、祖考の功業を重んじて節を守る志を語った。
  • 四時の代謝・五土の刑徳に従い、神農の本業(農耕)を修め、周棄・范蠡の遺教を追うとして、隠棲して農耕に専念する決意を示した。
  • 隴山に登り八荒を望み、莊周の釣魚(辞位の故事)・於陵子の灌園(辞相の故事)を引いて、隠約の中にこそ道があるとした。
  • 天地の路は同軌だが帝王の政は異なるとし、堯舜の蕩蕩・禹の草命(革命)を述べ、高陽(顓頊)の疏通の智に及ばぬ自らを省みた。
  • 夏啓・帝典の傾き、成康の治・南風の歌、唐虞の晏晏、稷・契の朋を慕い、湯武の勃興に至る歴史を辿った。
  • 三后(夏殷周)の純粋が季世に窮まった例として、夏桀が南巣に、殷紂が牧野に、幽王が西戎に滅ぼされた故事を挙げ、逆に伊尹が亳に召され呂望が酆に迎えられた故事も挙げた。
  • 楊朱が岐路に哭き、墨子が染色の変化に泣いた故事を引き、正道が失われれば岐路が競い起こることを述べた。
  • 『詩経』関雎の識微、周・斉の盛徳、桓文の覇功(譎功)を述べ、戦国の遘禍と権臣の擅権を憎み、楚子(呉楚の僭称)の黜、趙武(趙文子)が溴梁で執われかけた例を挙げた。

馮衍――顯志賦(中半・忠信と権謀への評)

  • 申叔時の陳蔡での諫言、荀息が虞虢で仮道の計を用いた故事を挙げ、忠信の徒を美しく詐謀の徒を悪んだ。
  • 犂鉏の間聖(孔子を魯より去らせた計)、臧倉の孟子への讒言、子反(宋楚彭城の戦い、馮衍が誤って記した可能性あり)、管仲の夷儀での功を評した。
  • 兵革の萌生を嫌い、孫武(呉の名将、太湖=五湖に沈んだとの伝)、白起(長平で趙兵40余万を坑殺、のち自身も誅された)の末路を述べた。
  • 蘇秦(洹水で従親の盟)・張儀(連衡策、鬼谷に学ぶ)の縦横策を憎み、商鞅の法術・韓非の説論を焼くべきとした。
  • 秦始皇の跋扈と李斯の焚書坑儒を誚り、先王の法則を滅ぼした咎が禍を増幅させたとした。
  • 前聖に倣い驕奢を矯めた例として、晋の女齊(司馬侯)が絳台で諫めた故事、楚の椒挙(伍挙)が章華台で霊王を諫めた故事を挙げた。
  • 宋襄公の泓の戦い、季札の延陵での譲、鄭僑(子産)・晏嬰の賢行を挙げ、乱国の末流を正した例とした。

馮衍――顯志賦(後半・帰郷と隠棲の願い)

  • 九州の広大に迷い、伯夷・務光の清節に至ろうとし、子高(伯成子高)・許由・善巻ら唐虞の高士に思いを馳せた。
  • 陰陽の変化・五徳の精光を究めたいと願い、青龍・白虎・神雀・玄武などの四霊を配し、高陽(顓頊)に託して神仙を養う想像を述べた。
  • 前賢(綺季=四皓の一人、屈原)の高節を纂ぎ、冠を高く佩を長くし、六醴・五芝(仙薬)を食するさまを想像した。
  • 枳・蕙・若・蘭芷・杜衡・射干・蘼蕪・木蘭・新夷など香草を植え籬・室・庭を構える隠棲の理想像を描いた。
  • 大宅(天地)に精神を遊ばせ玄妙の常操を保ち清静に志を養うことを楽しみとし、鸞の群を求める姿・鹿の友を求める鳴き声に自らを重ねた。
  • 孔子の知命・老聃の貴玄を誦じ、山谷に身を寄せ寂寞を守り精神を存する境地を述べた。
  • 荘周の釣魚・於陵子の灌園(再述)を至人の髣髴とし、隠約の中に道を得ることを願い、俗と同じからざる志、俶儻として高く引く生き方を望むとして賦を結んだ。

馮衍――家庭・晩年

  • 顕宗(明帝)即位後も馮衍は文が実に過ぎるとされ官を廃された。
  • 馮衍は北地の任氏を妻としたが、悍忌で妾を置くことを許さず、老いてついに追い出され、時勢に恵まれぬ生涯を送った。
  • しかし志は大きく、貧賤を憂えず「少にして名賢に事え顕位を歴任し、印綬を懐き節を掲げて使いを奉じた。凌雲の志があり三公の貴・千金の富も願わなかった」と慷慨した。
  • 貧しくとも衰えず賤しくとも恨まず、名賢の風に及ぼうとし、道徳を幽冥の路に修めて身を終え名を後世の法とすることを願った。貧のうちに老いて家で卒した。
  • 賦・誄・銘・説・問交・徳誥・慎情・書記・説・自序・官録・説策など五十篇を著した(衍集には二十八篇のみ現存するという)。
  • 粛宗(章帝)はその文を高く評価した。

馮衍――子・馮豹

  • 子の馮豹、字は仲文。12歳の時母が父に去られ、後妻に憎まれ夜に毒害されかけたが逃れ、それでも孝を尽くしたため人々に称された。
  • 儒学を好み『詩』『春秋』を麗山下で教え、郷里で「道徳彬彬たる馮仲文」と語られた。
  • 孝廉に挙げられ尚書郎を拝し、忠勤で職務に励んだ。粛宗はこれを嘉し、黄門に被を持たせ驚かせぬよう命じた。
  • 西域平定にあたり才謀を認められ河西副校尉となり、和帝初め辺事を建言して戊巳校尉・城郭諸国の旧職復活を進言した。
  • 武威太守に遷り2年間治めて称えられ、尚書に召還された。永元14年、官にて卒した。

論曰

  • 貴者は威勢に頼り驕り、才士は能力に頼り行いを疎かにするのが大略の常だが、桓譚・馮衍もその通りであったと評した。
  • 馮衍が妻を戒める譬えを引いたことは巧みだが、人は罵る妻を娶ることを知りながら士を用いることができないのはなぜか、と問い、妬情は反りやすく恕義は行いにくいためだとした。
  • 光武帝は鮑永を得たが馮衍を失ったとし、義直(義を貫く直節)ゆえに既往で屈せられ、節を守るがゆえに来る機会をさらに阻まれたと総括した。

贊曰

  • 「桓譚は讖術を非とし、馮衍は晩年に身を委ねた。道は互いに謀らずして違ったが、時に逆らって失うところは同じであった。ともに上才を兼ねながら、栄は下秩に微かであった」と評した。