後漢書卷五十八上 桓馮列傳第十八上 馮衍

出自

  • 馮衍、字は敬通。京兆杜陵の人。祖父の馮野王は元帝の時代に大鴻臚となった。
  • 馮衍は幼くして竒才があり、9歳で詩を暗誦し、20歳で群書に博通した。王莽の時、諸公から推挙されたが仕官を固辞した。

更始将軍㢘丹への説得

  • 天下に兵が起こると、王莽は更始将軍・㢘丹に山東討伐を命じ、丹は馮衍を掾として招いた。
  • 丹が定陶に至った際、王莽から督戦の詔が届くと、馮衍は丹に対し、斉の逄丑父・鄭の祭仲の故事(権謀による君主保全の例)を引いて「大義のため小節にこだわらず、順逆よりも成功を重んじるべき」と説いた。
  • さらに張良の例(韓に累代仕えた家系が秦始皇帝を博浪沙で襲撃した故事)を引き、㢘丹の先祖も漢の信臣であるとして漢への帰順を勧めた。
  • 屯拠して吏士を鎮撫し、雄桀を招き忠智の謀を集めて社稷の利を興すべきと説得したが、丹は従わなかった。

睢陽での再説得、丹の戦死

  • 睢陽で再び説得したが丹はなお従わず、無塩に進んで赤眉と戦い戦死した。
  • 馮衍は河東に亡命した(華嶠書によれば、丹の死後、軍を離れた罪で追捕されるところだったという)。

更始期、鮑永への出仕

  • 更始2(24年)年、尚書僕射・鮑永が大将軍事を代行し北方を安集した際、馮衍は計を献じて仕えた。
  • 上書で、明君は切慤の言を厭わず忠臣は諫言による患難を顧みないと説き、更始の統治を助けるべきと勧めた。
  • 天下が王莽の害を受けて久しいことを、東郡の師(翟義の挙兵)・西海の役(羌族の反乱)・巴蜀の南夷への侵攻・縁辺の北狄の破敗の各事件を挙げて述べ、光武帝の昆陽での挙兵と武関突破の功を称えた。
  • しかし諸将の掠奪が民心を失わせていることを憂い、周の申伯・召虎・尹吉甫の例を引いて徳による民の安撫を説いた。
  • 邯鄲(王郎)・真定(劉揚)の乱を挙げ防備を怠らぬよう促し、十室の邑に必ず忠信ありとして賢才の登用を勧め、屯田・訓練の充実を説いた。
  • 鮑永はこれを容れ、馮衍を立漢将軍・狼孟長・屯太原とした。

上党太守田邑との対立

  • 光武帝即位後、宗正の劉延が天井関を攻めるが田邑らに阻まれる中、邑は母弟妻子を人質に取られ、更始の敗北を知って光武帝に降り上党太守となった。
  • 田邑が使者を送り鮑永・馮衍にも招降を試みたが、二人は疑って応じず、旧約を破った邑を怒った。
  • 馮衍は邑に書を送り、晋の子犯・程嬰の忠義を引いて説得しようとしたが、田邑もまた馮衍らを非難する返書を送り(更始滅亡後も新帝に降らないのは韓信・智伯の故事に例えられる無謀な行いだと反論)、両者の対立は解けなかった。

馮衍・鮑永――帰順

  • 訛言により更始がなお生存し赤眉とともに北にいると信じた鮑永・馮衍は湼城で兵を挙げようとしたが失敗した。
  • 更始の死を確認した鮑永・馮衍はついに兵を罷め、幅巾のまま河内に降った。
  • 光武帝は両者の降伏が遅れたことを怒ったが、鮑永は先の功により用いられ、馮衍だけは退けられた。
  • 鮑永は季布・丁固の故事(漢高祖が忠を尽くした敵将を賞し不忠の臣を誅した例)を引いて衍を慰めた。
  • 馮衍は「隣人の妻を口説く者の譬え」(貞節な妻の方が信頼される、『戦国策』所引の陳軫の言)を引いて自らの節義を語った。
  • 帝は馮衍を曲陽令とした。馮衍は劇賊・郭勝ら5000余人を討ち降した功があったが、讒言により賞されなかった。

建武6年の上書、失脚

  • 建武6(30年)年、日食を機に馮衍は8事(顕文徳・褒武烈・修旧功・招俊傑・明好悪・簡法令・差秩禄・撫辺境)を上書。帝はこれを受け召見しようとしたが、狼孟長時代に大姓・令狐略を摘発した恨みから司空長史の令狐略が尚書令王護・尚書周生豊に讒言し、召見は実現しなかった。
  • その後、外戚の衛尉陰興・新陽侯陰就と親しく交わり、諸王の招請を受けるようになった。
  • 光武帝が西京の外戚賓客を厳しく取り締まる中、馮衍もこれに連座した。詔により赦されたが、以後は郷里に閉門し親故との交わりを絶った。