出自
- 桓譚、字は君山。沛国相県の人。父は成帝の時代に太楽令を務めた。
- 父の任官により郎となる。音律を好み、五声(宮商角徴羽)・六律(黄鍾・太蔟・姑洗・㽔賔・夷則・無射)に通じた。
- 琴に巧みで博学。五経すべてに通じたが、訓詁の大義を重んじ章句の細かな解釈にはこだわらなかった。
- 文章を得意とし、劉歆・揚雄にしばしば学んで疑異を弁析することを好んだ。倡楽(俳優の楽)を嗜み威儀を修めず俗儒を非難したため、多く排斥された。
哀平間、董賢・孔郷侯との関わり
- 哀帝・平帝の間、位は郎にとどまった。哀帝の皇后の父・孔郷侯の孔晏と親しく交わった。
- 高安侯・董賢が寵愛され妹が昭儀となると皇后は日に疎まれ、孔晏は思い悩んだ。桓譚は前漢武帝が衛子夫を寵し陳皇后が廃された故事を引いて、「刑罰は無罪の者に加えられず、邪枉は正に勝てない。董賢の妹が寵を得ている今、後の衛子夫のような変事が起こりかねない。門徒・賓客を謝絶し謙虚を貫くのが身を修め禍を避ける道である」と説いた。
- 孔晏はこれに従い常客を退けた。皇后はこれを伝え聞いた。
- 後に董賢は太医令の眞欽を使って傅氏の罪を探らせ、皇后の弟・侍中の喜(劉攽の校勘では「喜」は「傅喜」ではなく「傅嘉」の誤りとされる)を詔獄に下したが証拠を得られず、傅氏は哀帝の代を全うした。
- 董賢が大司馬となると桓譚と交わりを望んだが、桓譚は先に輔国保身の術を説く書を送っただけで、以後は交際しなかった。
王莽期・更始期
- 王莽が摂政・簒奪する際、天下の士は符命を作って媚びへつらったが、桓譚だけは沈黙を守った。王莽の時、掌楽大夫となった。
- 更始帝が立つと召されて太中大夫となる。世祖(光武帝)即位後は待詔として上書したが、意に沿わず用いられなかった。
- 大司空・宋弘の推挙で議郎・給事中となり、時政を論じる上疏を行った。
時政を論じる上疏(要旨)
- 国の興廃は政事にあり、政事の得失は輔佐の賢否によるとし、楚の荘王と孫叔敖の問答(『新序』所引)を引いて君臣が合致してこそ国是が定まると説いた。
- 董仲舒の「琴瑟の喩え」(調子の狂った琴瑟は張り替えるべき、『前書』所引)を引き、賈誼が才によって逐われ、鼂錯が智によって死んだ故事を挙げ、改革の困難と危険を述べた。
- 法禁は万人を統べる便法に過ぎないとし、伏官誅の後に私的に復讐して一族皆殺しに至る風潮を防ぐため、私的報復者を一族ごと辺境に徙すべきと提言。
- 高祖以来の商賈抑制策に倣うべきとし、富商が高利貸しで中家の子弟を保役として使役し民を惑わす弊害を批判。
- 姦吏が法令の不統一を利用して恣意に生殺を左右する「刑開二門」の弊を正すため、法律に通じた者に科比を校定させ天下に頒布し旧条を除くべきと説いた。
- 上奏は取り上げられなかった。
第二の上疏(讖への反対)
- 光武帝が讖緯を信じ嫌疑の決定に用いていたため、桓譚は再び上疏した。
- 先王の記述は仁義正道を本とし竒怪虚誕を語らず、孔子の「性と天道」は子貢すら聞けなかったと述べた(『論語』所引)。
- 巧慧な小才伎の徒が図書を増益して讖記と偽称し人主を惑わすことを批判し、帝が黄白の術(錬金術)は退けながら讖記は納れるのは矛盾だと指摘した。
- 群小の曲説を排し五経の正義を述べるべきと説き、安平の時は道術の士を尊び有難の時は介冑の臣を尊ぶとして、四方になお降伏せぬ盗賊がいるのは権謀が及ばないためだと述べた。
- 「天下皆知取之為取而莫知與之為取」(先に与えてこそ取れる、老子の言)を引き、爵禄を軽んじず士と分かち合うべきと説いた。
- 帝はこの上奏に一層不機嫌になった。
霊台の議、讖批判で死刑寸前に
- 霊台建設地について会議した際、光武帝が「讖で決めたい」と問うと、桓譚は黙り込み「臣は讖を読みません」と答えた。
- 帝が理由を問うと、桓譚は改めて讖の非経典性を極言。帝は激怒し「桓譚は聖を非とし法を無みする」として斬罪を命じた。
- 桓譚は叩頭し血を流してようやく赦され、六安郡丞に左遷された。
- 意気消沈したまま病を得て卒した。享年70余。
著作
- 当時の行事を論じた二十九篇を著し『新論』と号し、世祖に献上して善しとされた(本造・王覇・求輔・言体・見徴・譴非・啓寤・袪蔽・正経・識通・離事・道賦・辨惑・述策・閔友・琴道の各篇。本造・閔友・琴道の3篇以外は上下に分かれ、計29篇)。
- 『琴道』篇は未完のまま没し、粛宗(章帝)の命で班固が続作した。
- 賦・誄・書・奏あわせて26篇を著した。
- 元和年間、粛宗が東方巡狩の際に沛に至り、使者に桓譚の墓を祀らせ、郷里の栄誉となった。