後漢書卷五十七 宣張王王杜郭吳承鄭趙列傳第十七 趙典
節を貫いた三公
- 趙典、字は仲経。蜀郡成都の人。父の戒は太尉。桓帝擁立の功で厨亭侯を継ぎ、篤行と博学で遠方から弟子が集まった。議郎侍講、侍中を経て、鴻池の拡張計画を「唐虞の倹約・文帝の愛民に反する」と諫め止めさせた。
- 鴻農太守、右扶風、城門校尉、将作大匠、少府、大鴻臚を歴任。無功の恩沢諸侯への封爵を「高祖の誓いに反する」と批判する上奏を行うが容れられず。太僕、太常として災異のたびに諮問され、賞賜は貧しい弟子に分け与えた。
- 諫争が帝の意に逆らい免官・封国送還となったが、桓帝崩御の際、藩国の奔喪禁止の制を破って自ら都に馳せ参じ、烏の反哺の故事を引いて忠孝を貫いた。公卿の嘆願で租による贖罪が許された。長楽少府、衛尉を歴任し病没、竇太后が印綬を追贈し献侯と諡した。
趙謙・趙温――趙典の兄子
- 兄の子の謙・温が相継いで三公に。謙は初平元年、太尉、車騎将軍事代行を経て前将軍として白波賊討伐に功あり、郫侯に。李傕による王允誅殺後、司徒・尚書令を歴任し没し忠侯と諡された。
- 温は「大丈夫たるもの雄飛すべし、雌伏すべからず」と述べ京兆郡丞を辞した逸話が伝わる。飢饉に際し家財を散じて1万余人を救済。献帝の西遷に従い江南亭侯、司空・司徒を歴任。李傕・郭汜の争乱で帝を移そうとする傕を、易の「三たびにして改めざれば凶」を引いて諫めた書簡が伝わる。曹丕を掾に招いた際、忠臣の子弟を選挙不実として免官され、その年72歳で没した。
史論(総括)
- 賛に曰く。宣秉・鄭均・王丹は清廉方正に身を保ち、杜林は古学に拠り、張湛は威儀を正し、趙典は義を以て官を退いた。杜林の徳は明帝の代にも顕彰され、鄭均は退官してなお高車に乗って世を終えたと。