後漢書卷五十七 宣張王王杜郭吳承鄭趙列傳第十七 杜林
古文尚書を伝えた学者
- 杜林、字は伯山。扶風茂陵の人。父の鄴は成哀期の凉州刺史。外家の張竦父子に学び博識で「通儒」と称された。王莽末の混乱期、弟の成らと河西に逃れる途上、賊に襲われるが、同行の孟冀の弁舌(「天神を知るか」の問答)で救われた逸話が伝わる。
- 隗囂に厚遇され「持書平」に任じられるが、弟の成の死を機に東帰を望むと、隗囂は「杜伯山は天子も臣とできず諸侯も友とできぬ人物、伯夷叔齊のようなもの」と評しつつ暗殺を企てたが、刺客の楊賢が林の孝行に感じて手を下さず逃げた逸話がある。
- 光武帝に召され侍御史。馬援との友情(馬一匹の贈答を巡る逸話、林の清廉さが「勝る所」と評された)や、鄭興・衛宏ら古学者との交流も伝わる。西州で得た漆書古文尚書一巻を戦乱の中でも手放さず、衛宏・徐廵に伝授し古文の学統を守った。
- 郊祀の議論で「漢は后稷ではなく高祖の功による」との異説を主張し採用された。大司徒司直、光祿勲を歴任し、肉刑復活論に対しては孔子の「導くに政を以てすれば民は免れて恥無し」を引いて反対、旧制維持を主張し帝に容れられた。皇太子彊が東海王として退いた際は王傅として忠実に仕え、少府・光祿勲・大司空を歴任、建武年間末に薨去。子の喬は丹水長となった。
史論(杜林)
- 論じて言う。威強に頼れば力衰えて身を危うくし、詐りで自ら図れば窮すれば道を失う。忠信篤敬は蛮貊の地でも行われるという——趙盾(趙孟)の忠、杜林の義烈はこれに当たる。