光武帝への帰属と太山・琅邪平定
- 陳俊、字は子昭。南陽西鄂の人。若くして郡吏となった。更始帝の即位後、宗室の劉嘉が太常将軍となり陳俊はその長史となった。光武帝が河北を巡撫すると、劉嘉は書を送り陳俊を推挙し、光武帝は安集掾とした。
- 銅馬を清陽で撃つ従軍に従い滿陽に進み彊弩将軍を拝命した。安次で五校と戦った際、陳俊は馬を下り自ら短兵を執り向かう所すべてを破り、二十余里追撃してその渠帥を斬って還り、光武帝はこれを望んで「戦う将がみなこうであれば、何の憂いもない」と嘆じた。
- 五校が退いて漁陽に入り通過先で虜掠を行うと、陳俊は「軽騎を賊の前に出し、百姓に堅く砦を守らせ食糧を絶てば、戦わずして滅ぼせます」と光武帝に進言し、光武帝はこれを是として陳俊に軽騎を率いさせ賊の前に馳せさせ、堅固な堡塁は固守を命じ、散らばる者は掠め取らせた。賊は至るも何も得られず散り敗れ、軍が還ると光武帝は「この虜を困らせたのは将軍の策だ」と語った。光武帝の即位後、陳俊は列侯に封じられた。
- 建武二年(26年)春、匡賊を撃ち四県を落とし、新処侯に改封された。頓丘を攻めて三城を降した。その秋、大司馬呉漢は承制して陳俊を彊弩大将軍に任じ、別に河内で金門・白馬の賊を撃ちいずれも破った。建武四年(28年)、汝陽・項に転戦し南武陽を落とした。当時、太山の豪傑の多くが張歩と兵を連ねていたため、呉漢は光武帝に「陳俊でなければこの郡を平定できません」と進言し、陳俊は太山太守・行大将軍事を拝命した。
- 張歩がこれを聞き将を遣わして陳俊を嬴で撃たせたが、陳俊は大破し済南まで追撃し印綬九十余を得た(張歩が私に爵位を与えるための印綬)。次第に諸県を下し太山を平定した。建武五年(29年)、建威大将軍耿弇と共に張歩を破った(詳細は耿弇伝にある)。琅邪がまだ平定されていなかったため陳俊を琅邪太守に転じ将軍のまま兼任させた。斉の地では以前から陳俊の名が知られ、境に入ると盗賊がみな解散した。董憲を贛榆に撃ち、朐の賊孫陽を破って平定した。
- 建武八年(32年)、張歩が叛いて琅邪に還ると陳俊は追討し斬った。光武帝はその功を美とし詔により陳俊は青・徐両州の専征を許された。貧弱を撫し義行を表彰し軍吏が郡県の政に干渉することを禁じたため百姓はこれを歌に詠んだ。しばしば上書して隴・蜀への出撃を願ったが、詔で「東州が新たに平定したのは大将軍の功である。海に近く反乱の起こりやすいこの地は国家の重い憂いなので、鎮撫に努めてほしい」と返答された。建武十三年(37年)、加増され祝阿侯に定封された。翌年、召還され朝請に列した。建武二十三年(47年)に卒し、子の陳浮が嗣ぎ蘄春侯に徙封された。陳浮の卒後、子の陳専諸が嗣ぎ、専諸の卒後、子の陳篤が嗣いだ。