後漢書卷四十八 呉蓋陳臧列傳第八 蓋延

光武帝への帰属と河北・南陽平定

  • 蓋延、字は巨卿。漁陽要陽の人。身長八尺、三百斤の弓を引く力を持ち、辺境の風習は勇力を尊ぶ中でも蓋延はその剛力で聞こえ、郡・州の掾属を歴任しどこでも職務をよく果たした。
  • 彭寵が太守となると蓋延を営尉に任じ護軍を行わせた。王郎の挙兵に際し、蓋延は呉漢と共に光武帝への帰服を謀った。広阿に至り偏将軍を拝命し建功侯の号を賜り、河北平定に従った。光武帝の即位後、虎牙将軍となり、建武二年(26年)に改めて安平侯に封じられ、南の敖倉を撃ち転じて酸棗・封丘をいずれも落とした。
  • その夏、駙馬都尉馬武・騎都尉劉隆・護軍都尉馬成・偏将軍王霸らを督し南の劉永を伐ち、まず襄邑を落とし、麻郷を取り、劉永を睢陽に数月囲んだ。野の麦を刈り尽くし、夜、梯子で城を越えて入ると劉永は驚き東門から逃げ出した。蓋延は追撃し大破し、劉永は軍を捨て譙に逃げた。蓋延は薛を攻め落とし魯郡太守を斬り、彭城・扶陽・杼秋・蕭がみな降った。また劉永の沛郡太守を破り斬った。
  • 劉永の将蘇茂・佼彊(姓佼、名彊)・周建ら三万余人が劉永を救援し共に蓋延を攻めたため、蓋延は沛の西で戦い大破し、劉永の軍は乱れ潰走の際に溺死者が大半に上った。劉永は城を捨て湖陵に逃げ、蘇茂は広楽に奔った。蓋延は沛・楚・臨淮を平定し、高祖廟を修めて嗇夫・祝宰・楽人を置いた。建武三年(27年)、睢陽が再び反して劉永を迎えると、蓋延は再び諸将を率いて百日囲み、野穀を刈り尽くすと劉永は食糧に窮し突囲を図ったが、蓋延はこれを追撃してすべての輜重を得た。劉永は自らの将に殺され、弟の劉防が城を挙げて降った。
  • 建武四年(28年)春、蓋延は再び蘄で蘇茂・周建を撃ち、進んで留で董憲と戦い破った。平敵将軍龐萌を率い西防を攻め落とし、再び彭城で周建・蘇茂を破り追撃した。蘇茂・周建は董憲のもとに逃げ、董憲の将賁休が蘭陵城を挙げて降ると、董憲はこれを聞き郯から蘭陵を囲んだ。蓋延と龐萌が楚にいたため救援を求めると、光武帝は「まっすぐ郯を攻めれば蘭陵の囲みは自ずと解ける」と勅したが、蓋延らは賁休の城が危ういと見て先に赴いた。董憲は迎え撃ちわざと敗走したため蓋延らは追撃し、その勢いで囲みを抜いて城に入った。
  • 翌日、董憲が大軍で包囲すると、蓋延らは驚いて突囲し郯を攻めに向かったが、光武帝は「先に郯へ赴くべきだったのは不意を突くためだったのに、今すでに敵が奔走し賊の計はすでに立った、囲みが解けるはずがない」と責めた。案の定、蓋延らは郯を攻めても落とせず、董憲はついに蘭陵を落とし賁休を殺した。蓋延らは彭城・郯・邳の間で董憲の別将を往来して要撃し、日に数度戦い多くの戦果を挙げた。光武帝は蓋延が敵を軽んじ深入りすることをしばしば書で戒めた。
  • やがて龐萌が反乱し楚郡太守を攻め殺し蓋延を襲って破ると、蓋延は北に泗水を渡り舟檝を破り橋を壊してようやく難を免れた。光武帝は自ら東征し、蓋延・大司馬呉漢・漢忠将軍王常・前将軍王梁・捕虜将軍馬武・討虜将軍王霸らと任城で合流し龐萌を桃郷に討ち、さらに董憲を昌慮に討伐し共に平定した。
  • 建武六年(30年)春、長安に屯するよう遣わされた。建武九年(33年)、隗囂の死後、蓋延は西に街泉・略陽・清水の諸屯聚を撃ち平定した。建武十一年(35年)、中郎将来歙と共に河池を攻めたが落とせず、病により引き返し左馮翊将軍を拝命した。建武十三年(37年)、加増され食邑一万戸となった。建武十五年(39年)に在任のまま薨じた。子の蓋扶が嗣ぎ、扶の卒後、子の蓋側が嗣いだが、永平十三年(70年)に舅の王平との謀反に坐して誅殺され国は除かれた。永初七年(113年)、鄧太后が蓋延の曽孫蓋恢を蘆亭侯に紹封した。蓋恢の卒後、子の蓋遂が嗣いだ。