後漢書卷四十八 呉蓋陳臧列傳第八 呉漢

呉漢(字は子顔、南陽宛の人、?–44年)。貧しい家に生まれ亭長を務めたのち、王莽末の混乱で漁陽に亡命した。彭寵を光武帝方に説き伏せたのを機に光武帝に帰服し、河北平定・南陽平定・蜀の公孫述討伐で大功を挙げて大司馬に至った。剛毅質朴な性格で終始篤い信任を受けた光武帝の重臣。

年表(9件)
  • 建武二年26年鄴の東で檀郷の賊を大破し十余万を降し、広平侯に改封される
  • 建武八年32年車駕に従い隴に上り西城で隗囂を囲むが、公孫述の援軍が到着し退却する
  • 建武十一年35年岑彭らと公孫述討伐に出発、岑彭が刺客に殺されるとその軍を併せる
  • 建武十二年36年魚涪津で公孫述の将魏黨・公孫永を破り武陽を包囲する
  • 建武十二年36年成都に迫るが謝豊に囲まれ苦戦、劉尚と合流し大破して謝豊・袁吉を斬る
  • 建武十二年36年公孫述を敗死させ成都を降し、その首を洛陽に送る
  • 建武十五年39年馬成・馬武と北の匈奴を撃ち、雁門・代郡・上谷の吏人を移す
  • 建武十八年42年蜀郡の史歆の反乱を討伐し成都を包囲、これを落として誅する
  • 建武二十年44年重病となり薨去、忠侯と諡される

光武帝への帰属と河北平定

  • 呉漢、字は子顔。南陽宛の人。家は貧しく県の亭長を務めた。王莽末、賓客の犯罪に連座して漁陽に亡命し、資金が乏しく馬の売買を生業として燕・薊の間を往来し、行く先々で豪傑と交わった。
  • 更始帝が使者韓鴻を河北に巡らせた際、ある者が「呉子顔は奇士である、共に事を計るべきだ」と韓鴻に薦めた。韓鴻は呉漢を召見し大いに気に入り、承制して安楽令に任じた。
  • 王郎が挙兵し北州が動揺すると、呉漢は日頃から光武帝の長者ぶりを聞いており帰服したいと考え、太守彭寵に「漁陽・上谷の突騎は天下に聞こえた精鋭である。なぜ二郡の精鋭を合わせ劉公に附いて邯鄲を撃たないのか、これは一時の好機である」と説いた。彭寵はこれに同意したが、官属はみな王郎に附こうとし彭寵はこれを抑えられなかった。呉漢は外亭に退いて衆を欺く策を考えていたところ、道に儒生らしき者を見つけ食事を与え、話を聞くと「劉公が通った郡県はみな帰服し、邯鄲で尊号を挙げた者は実は劉氏ではない」と語った。呉漢は喜び、光武帝の偽書を作って檄を漁陽に移し、その儒生に持たせて彭寵に届けさせ自らも後を追って説いた。彭寵は大いに納得し、呉漢に兵を与えて上谷の諸将と合流させ南下させ、王郎の将帥を各地で撃破した。
  • 光武帝が広阿に至ると呉漢は偏将軍を拝命し、邯鄲を落とすと建策侯の号を賜った。呉漢は人柄が質朴で口下手であり、俄かには言辞で自らをアピールできなかったが、鄧禹らの推挙によりようやく召見され、その後は親信され常に光武帝の側近くに置かれた。
  • 光武帝が幽州の兵を発しようとし、夜、鄧禹に人選を問うと、鄧禹は「近頃たびたび呉漢と語りましたが、勇猛で智謀があり、諸将の中でも及ぶ者は少ないでしょう」と答え、呉漢は大将軍・節を持たせられ十郡の突騎を発する任を負った。更始帝の幽州牧苗曾はこれを聞き密かに兵を整え諸郡に応じないよう命じた。呉漢は二十騎で先んじて無終に馳せ、苗曾は呉漢に備えがないと油断して道で出迎えたところ、呉漢は兵を指揮して苗曾を捕らえ斬りその軍を奪った。北州は震撼し城邑はみな風になびくように従った。
  • 呉漢は全軍を発して南下し光武帝と清陽で合流した。諸将は呉漢の帰還した軍の士馬が盛んなのを見て「これでは兵を分けてくれるはずがない」と口々に言ったが、呉漢が幕府に至り兵の名簿を提出すると、光武帝は「先ほどは分けてもらえまいと恐縮していたのに、なぜこれほど多くを請う者ばかりなのか」と諸将をたしなめ、諸将は皆恥じ入った。
  • 当初、更始帝は尚書令謝躬に六将軍を率いさせ王郎を攻めさせたが落とせずにいたところ、光武帝が来て共に邯鄲を平定した。しかし謝躬の裨将が虜掠を行い命令を聞かなかったため、光武帝は深くこれを忌み、共に邯鄲にいながら城を分けて別に居ながらもその都度慰撫した。謝躬は職務に勤勉で、光武帝は常に「謝尚書は真の吏である」と称え、それゆえ謝躬は疑いを持たなかった。
  • 謝躬はやがて数万の兵を率いて鄴に屯した。光武帝が南の青犢を撃つ際、謝躬に「私は射犬で賊を追撃すれば必ず破れる。山陽の尤来は必ず驚いて逃げるはずだから、あなたの威力でこれを撃てば必ず捕らえられる」と述べた。謝躬は「よろしい」と答え、青犢が破れると尤来は果たして北の隆慮山に逃げた。謝躬は大将軍劉慶・魏郡太守陳康に鄴を守らせ、自ら諸将軍を率いて追撃したが、窮寇は死戦しその鋭鋒に敵し難く、謝躬は大敗し死者数千人を出した。
  • 光武帝は謝躬が外にいる隙に、呉漢と岑彭にその城を襲わせた。呉漢はまず弁士を遣わし陳康を説いた。「上智は危うきに処さず僥倖を求めず、中智は危を機に功を為し、下愚は危に安んじて自ら亡ぶ。危亡の至るは人の行い次第、察せずにはいられない。今、京師は敗乱し四方は動揺しているのはあなたも知るところ。蕭王(光武帝)の兵は強く士が附き河北が帰命しているのもあなたが見ての通り。謝躬は内では蕭王に背き外では衆心を失っているのもあなたの知るところ。今、あなたが孤立した危城に拠り滅亡の禍を待つのは、義も節も成せない。門を開いて軍を入れ禍を転じて福となし、下愚の敗れを免れ中智の功を収めるのが至計というものだ」と。陳康はこれに同意し、劉慶と謝躬の妻子を捕らえ門を開いて呉漢らを迎えた。
  • 謝躬は隆慮から鄴に戻り、陳康がすでに寝返っていることを知らずわずか数百騎で軽々と城に入った。呉漢は伏兵をもってこれを捕らえ自ら手を下して謝躬を殺し、その軍はことごとく降った。謝躬、字は子張。南陽の人。もとその妻は光武帝が謝躬を快く思っていないことを知り「あなたは劉公と積年不和でありながらその虚言を信じて備えを怠れば、ついに制せられる」と戒めていたが、謝躬はこれを聞き入れなかったため難に遭った。
  • 光武帝は北の群賊を撃つ間、呉漢は常に突騎五千を率い軍の先鋒としてしばしば先に陣を陥した。河北平定後、呉漢は諸将と共に図籍を奉じ尊号を勧め、光武帝の即位後は大司馬を拝命し、改めて舞陽侯に封じられた。

河北・南陽・関中の平定

  • 建武二年(26年)春、呉漢は大司空王梁・建義大将軍朱祐・大将軍杜茂・執金吾賈復・揚化将軍堅鐔・偏将軍王霸・騎都尉劉隆・馬武・陰識と共に鄴の東、漳水のほとりで檀郷の賊を撃ち大破し、十余万人を降した。璽書により改めて広平侯に封じられ広平・斥漳・曲周・広年の四県を食んだ。
  • さらに諸将を率いて鄴西山の賊黎伯卿らを撃ち、河内脩武でも諸屯聚を破り、光武帝も自ら幸して慰労した。呉漢は再び南陽に進み、宛・湼陽・酈・穰・新野の諸城を落とし、南下し秦豊と黄郵水上で戦って破った。また偏将軍馮異と共に昌城・五楼の賊張文らを撃ち、新安で銅馬・五幡を破った。
  • 翌年春、建威大将軍耿弇・虎牙大将軍蓋延を率いて軹西で青犢を破り降した。さらに驃騎大将軍杜茂・彊弩将軍陳俊らを率いて広楽で蘇茂を囲んだが、劉永の将周建は十余万人を集めて広楽を救援した。呉漢は軽騎で迎え撃ったが利あらず落馬して膝を傷め営に戻った。周建らはこれに乗じて連兵し城に入り、諸将は「大敵が前にいるのに公が負傷して臥せっては軍心が動揺する」と述べたが、呉漢は勃然として傷を包み起き上がり、牛を割いて士を饗し「賊衆は多いといえど皆略奪の群盗、勝てば譲らず敗れれば救わない類だ。節を守り義に死のうとする者ではない。今日こそ封侯の秋、諸君励め」と軍中に令すると、士気は大いに奮った。
  • 翌朝、周建・蘇茂が出兵して呉漢を囲むと、呉漢は黄頭・呉河ら四部の精兵と烏桓突騎三千余人を選び、太鼓を鳴らして一斉に進撃させた。周建の軍は大潰し城に逃げ帰ったが、呉漢は長駆して門を争い共に入り大破した。蘇茂・周建は逃走し、呉漢は杜茂・陳俊らに広楽を守らせ、自ら蓋延を助けて劉永を睢陽で囲んだ。劉永の死後、二城は共に降った。
  • 翌年、陳俊・前将軍王梁と共に臨平で五校の賊を破り東郡の箕山まで追撃し大破した。北の清河長直・平原五里の賊も平定した。当時、鬲県の五姓が守長を共に追放し城に拠って反乱を起こしたが、諸将は攻めようとしたのに対し、呉漢は「鬲を反乱させたのは守長の罪である。軽々しく進兵する者は斬る」と述べ、檄を移して郡に守長を捕えさせ、城中の五姓には謝罪の使いを送った。五姓は大いに喜びこぞって帰降し、諸将は「戦わずして城を下すとは、我らの及ぶところではない」と感服した。
  • 冬、建威大将軍耿弇・漢忠将軍王常らと共に平原で富平・獲索の二賊を撃った。翌年春、賊は五万余人で夜、呉漢の営を攻め軍中は驚き乱れたが、呉漢は動かず横になったままであった。しばらくして落ち着くと、夜のうちに精兵を発し突撃してこれを大破し、余党を追討して無鹽に至り、渤海に進んで平定した。さらに董憲を朐城に囲む征伐に従い、翌年春、朐を落とし董憲を斬った(詳細は劉永伝にある)。これにより東方はことごとく平定され、軍を京師に凱旋させた。
  • 隗囂が叛いた際、呉漢は再び西の長安に遣わされ屯した。建武八年(32年)、車駕に従い隴に上り西城で隗囂を囲んだ。光武帝は「諸郡の甲卒はみな座して糧食を費やすばかり、もし逃亡が出れば衆心を挫く、みな罷めるべきだ」と勅したが、呉漢らは兵力を合わせて隗囂を攻めることに固執して遣わさず、糧食は日に日に減り吏士は疲弊し逃亡者が多く出た。公孫述の援軍が到着すると呉漢はついに退却し敗れた。

蜀の平定

  • 建武十一年(35年)春、征南大将軍岑彭らと共に公孫述を伐ち、岑彭が荊門を破って長駆江関に入ると、呉漢は夷陵に留まり露橈船を装備し、南陽の兵と弛刑の募士三万人を率いて江を遡った。ちょうど岑彭が刺客に殺されると、呉漢はその軍を併せた。
  • 建武十二年(36年)春、公孫述の将魏黨・公孫永と魚涪津で戦い大破し、武陽を包囲した。公孫述が娘婿の史興に五千人を率いて救援させたが、呉漢はこれを迎撃し全滅させ、犍為の境に入った。諸県が籠城する中、呉漢は広都を攻略し、軽騎を遣わして成都の市橋を焼いた。武陽以東の諸小城はみな降った。
  • 光武帝は呉漢を戒め「成都の十余万の衆は軽んじてはならぬ。広都を堅く守り敵の攻撃を待ち、争ってはならない。もし敵が来なければ営を移して圧迫し、その力が尽きるのを待って撃つべきだ」と述べた。しかし呉漢は勝ちに乗じ自ら歩騎二万余人を率いて成都に迫り、城まで十余里の地に江を隔てて北に営を構え浮橋を作り、副将の武威将軍劉尚に一万余人を率いさせ二十余里離れた江南に屯させた。
  • 光武帝はこれを聞いて大いに驚き呉漢を責め「以前あれほど細かく戒めたのに、なぜ事にあたって混乱するのか。敵を軽んじて深入りし、劉尚とも別営とは、緩急あれば救援も間に合わない。敵が兵を出して公を牽制しながら大軍で劉尚を攻めれば劉尚が破れ公も敗れる。何もなければよいが、急ぎ広都に引き返せ」と詔したが、その詔が届く前に案の定、公孫述は将の謝豊・袁吉に十数万の兵を二十余営に分けさせ呉漢を攻めさせ、別に一万余人で劉尚を遮って救援できぬようにした。
  • 呉漢は一日戦って敗れ塁壁に逃げ込み、謝豊に囲まれた。呉漢は諸将を集め「我らは共に険阻を越え千里を転戦し、至る所で敵を斬獲し敵地深く進んで城下に至った。今、劉尚と二か所で囲まれ、勢力は断たれ禍難は計り知れない。密かに軍を移し江南の劉尚と合流し共に防ぐべきだ。心を一つにして一人一人が戦えば大功を立てられる、さもなくば敗北は必至だ。成敗の機はこの一挙にある」と述べ、諸将は同意した。
  • 士を饗し馬に秣を与え、三日営を閉じて出ず、旗幟を多く立て煙火を絶やさぬまま、夜、枚を銜み劉尚と合軍した。謝豊らはこれに気づかず、翌日兵を分けて江北を防ぎ自ら江南を攻めたが、呉漢は全軍で迎え撃ち朝から夕方まで戦い大破し、謝豊・袁吉を斬り甲首五千余級を得た。呉漢は広都に引き返し劉尚に公孫述を防がせ、事情を詳しく上奏し深く自らを譴責した。
  • 光武帝は「公が広都に戻ったのは適切であった。公孫述は劉尚を素通りして公を攻めることは決してできない。もし先に劉尚を攻めれば、公は広都から五十里、歩騎すべてを率いて駆けつければちょうどその危困に乗じて破れるはずだ」と返答した。以後、呉漢は広都・成都の間で公孫述と八戦八勝し、その郭中に軍を進めた。公孫述は自ら数万人を率いて出城し大戦したが、呉漢は護軍高午・唐邯に数万の鋭卒を率いさせて撃たせ、公孫述の軍は敗走し、高午が陣に突入し公孫述を刺殺した(詳細は公孫述伝にある)。翌朝、城は降り、公孫述の首を斬って洛陽に送った。
  • 翌年正月、呉漢は軍を凱旋させ江を下り宛に至り、詔により郷里で墓参りをし穀二万斛を賜った。建武十五年(39年)、揚武将軍馬成・捕虜将軍馬武と共に北の匈奴を撃ち、雁門・代郡・上谷の吏人六万余口を居庸・常関以東に移した。建武十八年(42年)、蜀郡守将史歆が成都で反乱し自ら大司馬を称し太守張穆を攻めた。張穆は城を越えて広都に逃れ、史歆は郡県に檄を移し、宕渠の楊偉・朐䏰の徐容らもそれぞれ数千人を挙兵しこれに応じた。
  • 光武帝は史歆がかつて岑彭の護軍で兵事に明るいことから、呉漢に劉尚・太中大夫臧宮ら一万余人を率いさせ討伐させた。呉漢は武都に入り広漢・巴・蜀の三郡の兵を発し成都を百余日囲んで落とし、史歆らを誅した。呉漢は舟に乗り江を下り、巴郡の楊偉・徐容らは恐れて解散し、呉漢はその渠帥二百余人を誅し、党与数百家を南郡・長沙に徙した。
  • 呉漢は性格が剛毅で、常に征伐に従い光武帝がまだ安んじていないときは片足で立ち控えていた。諸将が戦陣の不利を見て動揺することがあっても、呉漢は意気自若として器械を整え士吏を励ました。光武帝が使者を送り大司馬(呉漢)が何をしているか見に行かせると、戦闘の準備をしていると報告があり、光武帝は「呉公はまことに人を安心させる、その威重さは一国に匹敵するようだ」と嘆じた。出師のたびに朝に詔を受け夕には出発し、支度に日を費やすことがなかった。それゆえ常に職を全うし功名を保った。
  • 朝廷では謹み深く質朴で、その様子は物腰に表れていた。かつて出征中に妻子が後方で田畑を買い増していたことを知ると、帰還後にこれを咎め「軍が外にある間、吏士は乏しいのになぜ田宅を買い増すのか」と述べ、すべて兄弟や外家に分け与えてしまった。
  • 建武二十年(44年)、呉漢は重病となり、光武帝は自ら見舞い望みを尋ねると、「臣は愚かで何も存じませんが、ただ陛下がみだりに赦をなさらぬことを願うのみです」と答えた。薨去に際し悼み、忠侯と諡した。北軍五校の軽車介士を発し、大将軍霍光の故事に倣った葬送を行った。子の哀侯呉成が嗣いだが奴に殺され、建武二十八年(52年)、呉漢の封を三国に分け、呉成の子の呉旦を灈陽侯とし呉漢の嗣を奉じさせ、呉旦の弟の呉盱を筑陽侯、呉成の弟の呉国を新蔡侯とした。呉旦は子なく卒し国は除かれ、建初八年(83年)、呉盱を平春侯に徙封し呉漢の後を奉じさせた。呉盱の卒後、子の呉勝が嗣いだ。呉漢の兄の呉尉は将軍として従軍し戦死したため、その子の呉彤を安陽侯とした。光武帝は呉漢の功が大きいことから弟の呉翕も襃親侯に封じ、呉氏は合わせて五国の侯となった。初め漁陽都尉厳宣が呉漢と共に光武帝に広阿で合流し、光武帝はこれを偏将軍とし建信侯に封じた。

史論

  • 論じていう。呉漢は建武の代を通じて常に上公の位にあり、終始篤い信愛を受けた。その質朴で力強い性格によるものであろう。孔子は「剛毅木訥は仁に近い」と説いたが、まさに呉漢のことをいうのではないか。かつて陳平は智謀が有り余るがゆえに疑われ、周勃は質朴忠実なるがゆえに信頼された。仁義の心が互いに依り合わなければ、智謀ある者はかえって疑われ、朴訥な者は逆に信を得る、ということであろう。