出自と挙兵
- 劉祉、字は巨伯(東観記では初名を終、後に祉と改めたという)。光武帝の族兄で舂陵康侯・劉敞の子である。劉敞の曾祖父・節侯劉買は長沙定王の子として零道の舂陵郷に封じられ舂陵侯となった。劉買が卒すると子の戴侯劉熊渠が嗣ぎ、劉熊渠が卒すると子の考侯劉仁が嗣いだ。劉仁は舂陵の地勢が低湿で毒気があるとして減邑と内地への移封を上書し、元帝初元四年に南陽の白水郷に徙封されたが、なお舂陵を国名とし、従弟の鉅鹿都尉劉回や宗族とともに移り住んだ。
- 劉仁が卒すると子の劉敞が嗣いだ。劉敞は謙倹で義を好み、父の代の金宝財産をことごとく兄弟に譲ったので、荊州刺史がその義行を上奏し廬江都尉に拝された。歳余りで族兄の安衆侯劉崇が挙兵すると、王莽は劉氏を畏悪し劉敞を長安に徴し免じて帰国させた。
- これより先、平帝の時、劉敞と劉崇はともに京師に朝し明堂で助祭したが、劉崇は王莽が漢室を危うくすることを見て劉敞に密かに「安漢公(王莽)は国権を専らにし群臣は皆これに阿り従い、社稷は傾覆しようとしている、太后は年高く天子は幼弱、高皇帝が子弟を分封したのはまさにこのためだ」と語り、劉敞も心にこれを是とした。劉崇の挙兵が敗れると劉敞は恐れて援けを結ぼうと図り、劉祉を高陵侯翟宣の女に娶らせたが、折しも翟宣の弟の翟義が莽を攻めようと挙兵し、南陽で翟宣の女が捕殺され、劉祉は連座して繋獄された。劉敞は上書して謝罪し子弟宗族を挙げて士卒の先とすることを願い出た。王莽が新の摂政を欲し宗室を慰安しようとしていたため刑誅を免れたが、莽の簒立後、劉氏の侯であった者はみな子に降格され孤卿の禄を食むこととなり(劉敞も後に爵を奪われた)、劉敞の卒後、劉祉はついに特に廃され官吏にもなれなかった。しかし劉祉は旧侯の嫡子として行いが淳厚で宗室に敬われた。
- 光武帝の挙兵に際し劉祉兄弟は相率いて従軍したが、前隊大夫甄阜がその家属をことごとく捕え宛の獄に繋いだ。漢兵が小長安で敗れると劉祉は身一つで棘陽に還り保ったが、甄阜はその母・弟・妻子をすべて殺した。更始が立つと劉祉を太常将軍とし舂陵侯に紹封し、西の関に従軍させ定陶王に封じた。別将として臨涇で劉嬰を撃破したが、更始が赤眉に降ると劉祉は間道を経て洛陽へ奔った。この時、宗室で最初に到着したのは劉祉であり、光武帝は大いに喜んだ。建武二年、城陽王に封じられ乗輿御物・車馬衣服を賜り、父の劉敞は康侯と追諡された。十一年、劉祉は病んで城陽王の璽綬を返上し列侯として先人の祭祀を奉じたいと願い出、帝は自らその病床に臨んだ。劉祉は薨じ年四十三、恭王と諡され、ついに就国せぬまま洛陽の北芒に葬られた。
- 十三年、劉祉の嫡子・劉平を蔡陽侯に封じ祉の祀を奉じさせ、劉平の弟・劉堅を高郷侯とした。初め建武二年、皇祖・皇考の墓を昌陵とし陵令を置いて守らせ、後に章陵と改めて舂陵を章陵県とした。十八年、考侯・康侯の廟を園陵に准じて立て嗇夫を置いた。零陵郡に節侯・戴侯の廟を奉祀させ四時と臘に年五回の祭祀を行わせ、嗇夫・佐吏各一人を置いた。劉平は後に諸王と交通した罪で国を除かれたが、永平五年、顕宗は改めて劉平を竟陵侯に封じた。劉平が卒すると子の劉真が嗣ぎ、劉真が卒すると子の劉禹が嗣ぎ、劉禹が卒すると子の劉嘉が嗣いだ。