出自と挙兵初期
- 劉良、字は次伯。光武帝の叔父である。平帝の時に孝廉に挙げられ蕭令となった。光武帝兄弟が幼くして孤児となると劉良は篤く撫育した。光武帝が挙兵した際、これを劉良に告げると大いに怒った。しかし劉良は「お前と伯升は志操を異にする、今家が危うくなろうとしているのに共に謀るとは」と言いながらも、やむを得ず従軍し小長安に至った。漢軍が大敗すると劉良の妻と二子が害された。
- 更始が立つと劉良を国三老とし関へ従軍させ、更始が敗れると劉良は光武帝の即位を聞いて洛陽へ奔った。建武二年、劉良を広陽王に封じ、五年に趙王に徙し始めて就国したが、十三年に趙公に降爵され毎年来朝した。十七年に京師で薨じ、在位十六年であった。子の節王・劉栩が嗣いだ。建武三十年に劉栩の二子を郷侯に、建初二年にさらに十子を亭侯に封じた。劉栩は在位四十年で薨じ子の頃王・劉商が嗣いだ。永元三年に劉商の三弟を、元年に四子を亭侯に封じた。劉商は在位二十三年で薨じ子の靖王・劉宏が嗣ぎ、十二年で薨じ子の恵王・劉乾が嗣いだ。元初五年、劉乾の二弟を亭侯に封じたが、その年、趙相が劉乾が父の喪中に密かに小妻を娶り白衣で司馬門を出たことを奏し、中丘県を削られる罪に処せられた。時に郎中で南陽の程堅が志行あって劉乾の傅に拝され、礼義をもって輔けたので劉乾は前過を改悔した。程堅がその功を上申したことで削られた県は復された。本初元年、劉乾の一子を亭侯に封じ、劉乾は在位四十八年で薨じ子の懐王・劉豫が嗣ぎ、劉豫が薨じると子の献王・劉赦が嗣ぎ、劉赦が薨じると子の劉珪が嗣いだ。建安十八年、博陵王に徙封され、在位九年、魏の初めに崇徳侯とされた。