後漢書卷二十七 五行志第十七 五行五

総説――皇之不極(皇極の変異)

  • 『尚書』大伝に曰く、皇(王)が中正の道を建てなければ「不建」と呼ばれ、その咎は眊(暗愚)、その罰は常陰、その極は弱となり、射妖・龍蛇の孽・馬禍・下人が上を伐つ病・日月の乱行や星辰の逆行が現れる。皇は君、極は中の意であり、これは天そのものを沴す現象であるため、「至尊」を憚って「沴天」とは明言しないという。恒陰(異常な曇天続き)については中興以来の記録がない(陽嘉二年、郎顗が「賢を得て用いずしてなお久陰の雨降らざるが如し」と上書した記録がある)。

射妖の記録

  • 霊帝光和中、洛陽の男子夜龍が北闕を弓矢で射た。取り調べで、貧窮のあまり弓矢を買い射たと供述した。近い意味での射妖とされる(風俗通によれば、龍は従兄陽に金を無心し陽が千銭を与えたが不満で、玄武の東闕を三たび射て捕らえられ処罰されたという。当時太尉議曹掾であった応劭は、この事件を単なる暴挙とせず、政治の要諦を説く典拠として上申した)。その後、車騎将軍何苗と兄の大将軍何進の部兵が相猜疑して闕下で戦い、何苗が死に数千人が殺され洛陽宮室の内人も焼き尽くされたことが、この射妖の応験とされる。

龍蛇の孽の記録

  • 安帝延光三年、済南で黄龍が歴城に、琅邪で黄龍が諸に現れたと言上された。当時安帝は讒言を信じ太尉楊震を免じて自殺させ、独り子の太子も讒言により廃していた。これは「皇不中」の兆で龍孽が現れたとされ、当時佞媚を多く用いていたためこれを瑞応とする者もいた。翌年正月にも東郡で黄龍二頭が濮陽に現れたと言上された。
  • 桓帝の即位時、徳陽殿上に大蛇が現れ、雒陽市令淳于翼はこれを「兵の象、後宮の大臣が誅を受ける兆」として官を棄てて逃れ、のち延熹二年に大将軍梁冀が誅され宗属が捕らえられた。
  • 延熹七年六月、河内野王山上で数十丈もの龍が死んで見つかった。襄楷はこれを、王莽の代に黄山宮で死龍が見つかり漢が莽を誅して世祖が興った故事に照らし、易代の徴とした。建安二十五年に魏文帝が漢に代わったのがその応験とされる(劉昭注はこの解釈に疑義を呈する)。
  • 永康元年八月、巴郡で黄龍が現れたと言上された。実際には吏の傅堅が民の戯言(池の水が濁ったのを見て「ここに黄龍がいる」と言い合った話)を郡が瑞応として上申したものであった。桓帝の治世は政治が衰え、各地から多く瑞応が言上されたが、いずれもこの類であったとされる。
  • 熹平元年四月、青蛇が御座上に現れた。当時霊帝は宦官に委任し王室が微弱であった(楊賜は「皇極が建たざれば龍蛇の孽あり、宦官の権を抑え妻妾への寵愛を割けば蛇の変は消える」と諫めた。建寧二年にも同様の青蛇の出現があり、張奐は陳蕃・竇武がまだ明らかに宥されていないことをその原因とした)。

馬禍の記録

  • 更始二年二月、更始帝が洛陽を発ち長安に入ろうとした際、司直李松が車を奉引したが北宮の鉄柱門に突き当たり三頭の馬がみな死んだ。これは馬禍とされ、当時更始は道を失い将に滅びようとしていた。
  • 桓帝延熹五年四月、驚いた馬と逸走した象が宮殿に突入した。近い意味での馬禍とされ、当時桓帝の政は衰えていた。
  • 霊帝光和元年、司徒長史馮巡の馬が人を生んだ(風俗通によれば、馬を飼う胡人の蒼頭が馬と姦通しこの子が生まれたという)。京房『易伝』に「上に天子なく諸侯が相伐てば、その妖は馬が人を生む」とある。のち馮巡は甘陵相に遷り黄巾の初起で殺され、国家も四面から敵を受け、関東の州郡が各々義兵を挙げて相攻伐し天子が西に遷り王政が隔塞したのは、この占いと合致するとされる。
  • 光和中、洛陽水西橋で民の馬が逸走し人を噛み殺した。当時公卿大臣や側近がしばしば誅殺されていた。

人痾・訛言の記録

  • 安帝永初元年十一月、民が互いに驚いて逃げ惑い什物を棄て廬舎を去った。
  • 霊帝建寧三年春、河内では妻が夫を食い、河南では夫が妻を食う異変が記された。劉昭注は、これを宋皇后擁立と霊帝の宦官への傾倒、王甫が姦を挟んで列侯を陥れたことと結びつけて論じる。
  • 熹平二年六月、洛陽の民の間で「虎賁寺の東壁の中に鬚眉の整った黄色い人の形がある」との訛言が広まり、数万人が見物し宮中の人々もみな出て道路が塞がった。応劭が実見したところ、単に汚れが染み付いただけであったが、応劭は「季夏は土黄が行き、虎賁は国の秘兵にして東(動)を示す」として天下が揺動する兆と論じた。中平元年二月、張角兄弟が冀州で挙兵し自ら「黄天」と号して三十六方に分かれ蜂起したのが、この応験とされる。
  • 光和元年五月、白衣の何者かが徳陽門に入ろうとし「われ梁伯夏なり、われに天子となるよう教えよ」と言い、中黄門らが捕らえようとしたが姿を消し名も知れなかった。蔡邕はこれを前漢成帝の時代の類似の怪異(王褒と称する男が宮中に入り天帝の使いと称した後、王莽が簒位した故事)になぞらえ、狂狡の者が王氏(新)の再来を謀る兆と論じたが、実際にはのち張角が「黄天」と称して乱を起こした(別伝には、董卓が入朝し帝を廃し后を殺し百官を専断した事件をこの妖の応験とする説もあり、梁は魏の地名であることから、曹魏の漢簒奪の徴とする解釈も付される)。
  • 光和二年、洛陽上西門外で女子が両頭で肩と胸を共有する子を生んだ。不祥として棄てられた。二頭の象は、朝廷が乱れ政が私門にあり上下の別がなくなる兆とされ、のち董卓が太后を殺し不孝の名を着せ天子を廃し害したことがこの応験とされる。
  • 光和四年、魏郡の男子張博が鉄盧を太官に送った際、後宮の禁苑で叫び声を上げたが取り調べで自ら覚えがないと供述した。劉昭注はこれを魏が漢に代わった後、後宮で叫び声が起こり母后が廃されたことの前兆と見る。
  • 中平元年六月、洛陽の男子劉倉の妻が両頭で身体を共有する男児を生んだ。
  • 霊帝の時、江夏の黄氏の母が沐浴中に黿(大がめ)に化して深淵に入り、以後時折現れたが、沐浴時に挿していた銀の釵が頭に残っていたという。劉昭注は「黄」は漢に代わる色、女が黿に化すのは君徳の陽が屈し陰に転ずる象と論じる。
  • 献帝初平中、長沙の姓桓氏の者が死んで棺に納められ一月余り後、母が棺中の音を聞いて開けると生き返った。占いでは「至陰が陽となり、下人が上となる」兆とされ、のち曹操が庶士から興ったこととされる。
  • 建安四年二月、武陵充県の女子李娥(六十余歳)が死んで杉の棺に納められ城外に埋葬されたが、十四日後に塚から声がして発掘すると生き返った(干宝『捜神記』に、盗掘しようとした蔡仲が娥の声に驚いて捕らえられた顛末や、娥が冥界で従兄劉伯文と再会した詳細な逸話が記される)。
  • 建安七年、越嶲で男が女に化した。周羣は哀帝の時にも同様の異変があり易代の兆であったとし、二十五年に献帝が山陽に封ぜられたことがその応験とされた。建安中にも、女子が両頭で身体を共有する男児を生んだ記録がある。

疫病の記録

  • 安帝元初六年夏四月、会稽で大疫(建武十三年・十四年、揚・徐部および会稽での大疫の記録、建武二十六年郡国七での大疫の記録がある)。
  • 延光四年冬、京都で大疫。張衡は翌年の上封事で、安帝の崩御を隠し行慝の臣が諸国王子を徴そうとした噂に触れ、郊天・祖廟の礼が汚された疑いと、恭陵の神道を冬至後に開いたことが「地気を発いた」ため疫が起こったとし、改過を求めた。
  • 桓帝元嘉元年、京都・九江・廬江で大疫。延熹四年正月、大疫(太公『六韜』に「人主が賦役を重んじ宮室・台遊を好めば民に瘟疫多し」とある)。
  • 霊帝建寧四年、熹平二年、光和二年・五年、中平二年、それぞれ大疫。
  • 献帝建安二十二年、大疫(魏文帝が呉質に宛てた書簡に、当時の疫禍で家々に死者が絶えなかったことが記される)。

天投蜺(虹の異変)の記録

  • 霊帝光和元年六月、北宮温明殿の東庭に黒気が堕ち、車蓋のように黒く身をくねらせ五色を帯び頭体を具え長さ十余丈、龍に似た形をしていた。蔡邕はこれを「天投蜺」と呼び、足も尾も見えぬため龍とは呼べないとし、『易伝』の「蜺は徳なくして色で人に親しむものの比喩」との説、潜潭巴の「虹の出現は后妃が陰をもって王者を脅かす兆」との説を引き、兵革の事、天子が兵威に外で苦しみ内で臣に権を奪われる兆と論じた。当時皇后何氏が斎戒のたび祖廟に謁見しようとすると必ず異変が起こり謁見できなかった。中平元年、黄巾の張角らが三十六方を立てて挙兵し山東七州に呼応、朝廷は角討伐の兵を外に出す一方、皇后の二兄(何進・何苗)が内で兵権を握った。その年霊帝が崩じ皇后が摂政し二兄が権を執って霊帝の母永楽后を自殺に追い込み、密かに并州牧董卓を呼んで宦官誅滅を図ったが宦官が先に大将軍何進を殺し、兵が相攻めて京都で戦闘が起こり道を塞ぐほどであった。皇太后母子はついに太尉董卓らに廃黜され死に、天下の兵乱がここから海内に二三十年にわたり広がった。その禍は何氏から起こったとされる。