総説――思心不容(土の変異)
- 五行伝に曰く、宮室を治め台榭を飾り、内に淫乱があり親戚を犯し父兄を侮れば、稼穡が実らなくなる。これは土がその性を失って災いとなることをいう。また君主の思うところが物を容れなければ「不聖」と呼ばれ、その咎は霿(暗愚)、その罰は常風、その極は凶短折となり、脂夜の妖・華孽・牛禍・心腹の病・黄眚黄祥が現れる。これらは金・水・木・火が土気を沴す現象とされる。
地震の記録
- 世祖建武二十二年(46年)九月、郡国四十二で地震があり南陽で最も甚だしく、地が裂けて人が圧死した。のち武谿の蛮夷が反乱し南郡にまで害を及ぼし、荊州諸郡の兵を発し武威将軍劉尚を遣わしたが囲まれ、増援もついに没した。
- 章帝建初元年(76年)三月、山陽・東平で地震。
- 和帝永元四年(92年)六月、郡国十三で地震。当時竇太后が摂政し兄竇憲が専権していたが、五日後に憲の印綬を牧して兄弟を国に帰らせ、迫られてみな自殺した。五年二月、隴西で地震。九月、匈奴単于於除鞬が叛し辺郡の兵で討たせた。七年九月、京都で地震。当時和帝は中常侍鄭衆と謀って竇氏の権を奪いこれを任用し、蔡倫も権を用いるようになった。九年三月、隴西で地震。閏月、塞外の羌が塞を犯し吏民を殺略し、征西将軍劉尚に討たせた。
- 安帝永初元年、郡国十八で地震。李固は「地は陰であり本来静かであるべきなのに、陰の職を越えて陽の政を専らにしたため震動が応じた」と論じた。当時鄧太后が摂政し専事し、建光年間に太后が崩じてようやく安帝が政を制した。この間西羌の乱が十余年続いた。二年から六年にかけても郡国九から四十二にわたり毎年のように地震が続き、六年二月には地が裂け水が涌き城郭・民屋が壊れ人が圧死した。
- 永寧元年、郡国二十三で地震。建光元年九月、郡国三十五で地震、地が裂け城郭・室屋が壊れ人が圧死した。当時安帝は明察を欠き宮人と阿母王聖の讒言(鄧太后の家を破壊した内容)を信じ、王聖と宦官の中常侍江京・樊豊らが権を擅にした。
- 延光元年から四年にかけて、京都・郡国でたびたび大規模な地震が続いた。三年は讒言により太尉楊震が免じられ太子が廃された時期。四年十月、安帝崩後に閻太后が摂政し兄弟の閻顕らが権を用い安帝の子を斥け諸国王子を改めて徴していたが、まだ至らぬうちに中黄門が閻顕兄弟を誅した。
- 順帝永建三年正月、京都・漢陽で地震があり漢陽の屋が壊れ人が死に、地が裂け水が涌いた。当時順帝の阿母宋娥と中常侍張昉らが権を用いていた。陽嘉二年四月、京都で地震。宋娥が山陽君に爵号された時期。四年十二月にも地震。
- 永和二年四月、京都で地震。当時宋娥が姦を構え誣罔しており、五月に発覚し印綬を収められ田里に帰された。十一月にも地震。太尉王龔が中常侍張昉らの専権を奏して誅そうとしたが、宗親が楊震の故事を引いて諌め止めた。
- 三年二月、京都・金城・隴西で地震し城郭・室屋の多くが壊れ人が圧死し、閏月にも京都で地震。十月に西羌二千余騎が金城塞に侵入し涼州を害した。四年三月、五年二月にも京都で地震。
- 建康元年正月、涼州・都郡六で地震(前年九月から四月まで百八十日にわたり続き山谷が裂け城寺を壊し人物を傷つけた)。三月、護羌校尉趙冲が叛胡に殺された。九月、京都で地震。順帝が崩じ梁太后が摂政し、順帝の陵の造営を過度に広くして吏民の墓を多く壊したため尚書欒巴が諫めると太后が怒り巴を下獄させようとしたが、その日地震が起こり太后は巴を出獄させ庶人に落とした。
- 桓帝建和元年四月・九月、京都で地震。当時梁太后が摂政し兄梁冀が権を持ち、和平元年に太后が崩じてなお梁冀は専事を続け延熹二年にようやく誅滅された。三年・元嘉元年・二年・永興二年・永寿二年・延熹四年・五年・八年、京都や涼州でたびたび地震が続いた。延熹五年は桓帝が中常侍単超らと謀って梁冀を誅した時期で、鄧皇后が小人の性行を持ちながら顔立ちで皇后に立てられ、のち左道の罪で廃され憂死した。
- 霊帝建寧四年、熹平二年・六年、光和元年・二年・三年、京都や京兆でたびたび地震が続いた。建寧四年は中常侍曹節・王甫らが専権していた時期、光和元年も宦官が専恣していた時期。光和三年秋から翌春にかけ、酒泉表氏で地が八十余度動き水が涌いて城中の官寺・民舎が偏り移動し、城郭を築き直した。
- 献帝初平二年・興平元年、地震が続いた。
山崩・地裂の記録
- 和帝永元元年(89年)七月、会稽の南山が崩れた。京房『易伝』に「山崩は陰が陽に乗じ弱が強に勝つ象」とある。劉向は山を陽君に、水を陰民になぞらえ、君道の崩壊と百姓の困窮を意味するとした。当時竇太后が摂政し兄竇憲が専権していた。
- 七年七月、趙国易陽で地が裂けた。京房『易伝』に「地裂は臣下が離反して従わぬ象」とある。当時南単于の衆が離反し漢軍が追討していた。
- 十二年、南郡秭帰で高さ四百丈の山が崩れ谷を埋め百余人を殺した。翌年冬、蛮夷が反乱し荊州の吏民一万余人を募って討たせた。
- 元興元年五月、右扶風雍で地が裂け、のち西羌が涼州を大いに侵した。
- 殤帝延平元年五月、河東の恒山が崩れた。当時鄧太后が専政し、秋八月に殤帝が崩じた。
- 安帝永初元年六月、河東楊で地が東西百四十歩・南北百二十歩・深さ三丈五尺にわたり陥没した。六年六月、豫章員谿原の山が六十三カ所崩れた。元初元年三月、日南で地が百八十二里にわたり裂け、三年後に蒼梧・鬱林・合浦で盗賊が群起し吏民を劫掠した。二年六月、河南雒陽新城で地が裂けた。
- 延光二年七月、丹陽の山が四十七カ所崩れた。三年六月、巴郡閬中の山が崩れた。四年十月、蜀郡越嶲の山が崩れ四百余人が死んだ。この日は天子の会日にあたり、当時閻太后が摂政していたが、その十一月に中黄門孫程らが江京を殺し順帝を立て閻后の兄弟を誅し、翌年閻后が崩じた。
- 順帝陽嘉二年六月、雒陽宣徳亭の地が八十五丈にわたり裂けた。李固は対策で「陰類が専恣する将に分離の兆」と論じた。当時宋娥と中常侍らがそれぞれ権を用いて争い、のち中常侍張逵・蘧政が大将軍梁商と権を争い商を陥れようと讒言した。
- 桓帝建和元年四月、郡国六で地が裂け水が涌き寺屋を壊し人を殺した。梁太后が摂政し兄梁冀が李固・杜喬を誣殺した時期。三年、郡国五で山崩れ。和平元年七月、広漢梓潼の山が崩れた。永興二年六月、東海朐山が崩れ、冬十二月に泰山・琅邪で盗賊が群起した。
- 永寿三年七月、河東で地が裂けた。梁皇后の兄梁冀が政を執り桓帝が自由を欲して内心これを患っていた時期。延熹元年・三年・四年・八年、左馮翊雲陽・漢中・泰山博・緱氏で地裂・山崩が相次いだ。延熹三年は中常侍単超らを桓帝が寵恣していた時期。
- 永康元年五月、雒陽高平・永寿亭・上党泫氏の地がそれぞれ裂けた。朝臣が中常侍王甫らの専恣を患っていた時期で、冬に桓帝が崩じ、翌年竇氏らが常侍・黄門を誅そうとして果たさず逆に誅された。
- 霊帝建寧四年五月、河東の地が十二カ所裂け、合計十里百七十歩、広い所で三十余歩、深さは底が見えないほどであった。
大風の記録
- 和帝永元五年五月、南陽で大風があり樹木を抜いた。
- 安帝永初元年、大風で樹木が抜けた。当時鄧太后が摂政し、清河王の子(安帝)が幼く従順であるとして立てたが、皇子勝(安帝の兄)を太子に立てず、のち安帝は親政すると讒言により鄧氏を廃免し郡県に迫らせて死者八九人・家の破壊多数に至った。これは「瞽霿」(暗愚)の応とされ、以後西羌の乱が涼州で十余年続いた。
- 二年六月、京都・郡国四十八で大風。三年五月、京都で大風があり南郊の道の梓樹九十六本を抜いた。七年八月、京都で大風。元初二年二月、京都で大風。六年夏四月、沛国・渤海で大風があり樹木三万余本を抜いた。
- 延光二年三月、河東・潁川で大風。六月、郡国十一で大風。当時安帝は讒言に親しみ曲直の区別がなくなっていた。三年、京都・郡国三十六で大風。
- 霊帝建寧二年四月、京都で大風雨雹があり郊道の十囲以上の樹百余本を抜いた。その後、東郊での迎気の儀の際にも暴風雨に遭い鹵簿の車の蓋が飛ばされ百官が濡れて郊に至れず、西郊での儀も同様であった。
- 中平五年六月、大風で樹木が抜けた。献帝初平四年六月、右扶風で大風があり屋を発き木を抜いた。中興以来、脂夜の妖の記録はない。
螟(害虫)の記録
- 章帝七八年間、郡県で大螟があり作物が損なわれたが、その事は魯恭伝に見え本紀には記されていない。当時章帝は竇皇后の讒言により宋・梁二貴人を害し皇太子を廃していた。
- 霊帝熹平四年六月、弘農・三輔で螟害。当時霊帝は中常侍曹節らの讒言により海内の清英の士を禁錮し「党人」と呼んだ。中平二年七月、三輔で螟害。
牛禍の記録
- 明帝永平十八年、牛の疫病で死ぬものが多かった。この年竇固らを遣わして西域を征し都護・戊己校尉を置いたが、固らが還るとすぐに西域が叛き都護陳睦・戊己校尉関寵が殺され、明帝は激怒して再征を図ったが秋に崩じた。これは「思心不容」の応とされる。
- 章帝建初四年冬、京都で牛の大疫。当時竇皇后が宋貴人の子(太子)を寵し人を使って貴人の過失を伺わせ讒毀していたが、章帝はこれを知らず竇太后の不善を見抜けなかった。あるいはこの年六月に馬太后が崩じ、その時期でない土木の興作があったためともいう。