後漢書卷二十五 五行志第十五 五行三

総説――聴之不聡(水の変異)

  • 五行伝に曰く、宗廟を軽んじて祈祷せず、祭祀を廃し、天時に逆らえば、水はその「潤下」の性を失って災いとなる。また君主が聴くことに聡くなければ「不謀」と呼ばれ、その咎は急、その罰は常寒、その極は貧となり、鼓妖・魚孽・豕禍・耳の病・黒眚黒祥が現れる。これらは火気が水気を沴す現象とされる。

大水の記録

  • 和帝永元元年七月、郡国九で大水があり作物が損なわれた。京房『易伝』には、事を専らにして誅罰の理を絶てば水災が人を殺し、既に水があってなお水が続けば地に虫が生じ、獄を解かねば寒が人を殺すなど、様々な咎徴が説かれる。当時和帝は幼く竇太后が摂政し、兄竇憲が要職を占め諸弟もみな貴顕となり威虐をふるい、怨みある者は刺客を用いて殺したが、のち竇氏は誅滅された。
  • 十二年六月、潁川で大水があり作物が損なわれた。当時和帝は鄧貴人を寵し陰皇后を廃そうとする意があり、陰后も怨みを抱いていた。あるいは恭懐皇后の葬礼に欠礼があり竇太后崩後に改葬したこと、梁后(和帝生母)の外舅三人が列侯に封ぜられ千金を賜ったこととも関連づけられる。
  • 殤帝延平元年五月、郡国三十七で大水があり作物が損なわれた。董仲舒は「水は陰気の盛んなるなり」と説く。当時殤帝は襁褓の中にあり鄧太后が専政していた。
  • 安帝永初元年冬十月、河南新城で山水が突出し民田を壊した。当時司空周章らが鄧太后の後継選定(清河王子=安帝の擁立)に不満を抱き廃立を謀ったが、十一月に発覚し誅された。この年郡国四十一で水害があり多くの民が没した。
  • 二年・三年・四年・五年も大水(記録によれば、二年は旱の年に周嘉が客死の骸骨を収葬すると澍雨が降り豊作になったため水害を免れたともいう)。
  • 六年、河東の池水が血のように赤く変わった。占いでは、水が血に変ずるのは為政者が残賊を好み無実の者を殺す兆とされ、当時鄧太后がなお専政していた(元初二年、潁川襄城の流水も血に変じたとの記録がある)。
  • 延光三年、大水で民が流されて死に苗稼が損なわれた。当時安帝は江京・樊豊・阿母王聖らの讒言を信じて太尉楊震を免じ皇太子を廃した。
  • 質帝本初元年五月、海水が溢れ楽安・北海で人や物が溺死した。当時質帝は幼く梁太后が専政していた。
  • 桓帝建和二年七月、京師で大水。前年冬に梁冀が故太尉李固・杜喬を誣殺していた。三年八月にも京都で大水。梁太后がなお専政していた。
  • 永興元年秋、河水が溢れ人や物を害した(朱穆伝に数千万戸が被害を受けたとの記録がある)。二年六月、彭城の泗水が増水し逆流した(梁冀の専政による様々な災異と結び付けられる)。
  • 永寿元年六月、雒水が溢れ津陽城門にまで及び人や物を漂流させた。当時梁皇后の兄梁冀が政を執り忠直な者を害し権勢は主を震わせるほどであったが、のち誅滅された。
  • 延熹八年・九年、済北・済陰・東郡・平原の河水が清んだ。襄楷はこれを「河は諸侯の象、清は陽明の兆」と論じ、翌年桓帝が崩じ解犢亭侯(霊帝)が嗣位した。
  • 永康元年八月、六州で大水があり渤海では海が溢れて人が没した。当時桓帝は奢侈で淫祀を好み、その十一月に嗣子なく崩じた。
  • 霊帝建寧四年、河水が清み、五月には山水が大出して五百余家の廬舎を壊した。熹平二年・三年・四年、東萊・北海の海水の氾濫、雒水の氾濫、郡国三の水害が続いた。光和六年秋、金城で河が二十余里にわたり溢れた。中平五年、郡国六(山陽・梁・沛・彭城・下邳・東海・琅邪の七郡とも)で大水。
  • 献帝建安二年九月、漢水が氾濫し民を害した。天下大乱の時期であった。十七年七月、大水で洧水が溢れた。十八年六月・七月にも大水があり天子が正殿を避けた。二十四年八月、漢水が溢れ民を害した(翌年魏に禅譲)。

恒寒(異常な寒さ)の記録

  • 霊帝光和六年冬、大寒で北海・東萊・琅邪の井戸の氷が一尺余りに達した。当時群賊が起こり天下が乱れ始めており、讖には「寒は小人の暴虐専権、位に在って無道、罰に法無く無罪を殺すことの兆」とある。
  • 献帝初平四年六月、冬のような寒風が吹いた。当時献帝は流離し政を失っていた。

雹の記録

  • 和帝永元五年六月、郡国三で鶏卵大の雹が降った。当時和帝は酷吏周紆を司隷校尉に用い刑罰が厳酷であった(建武十年・十二年・十五年、永平三年・十年にも雹害の記録がある)。
  • 安帝永初元年・二年・三年、雹が降り(三年は雁卵大で作物が損なわれた)、劉向は「雹は陰が陽を脅かすものである」と説き、当時鄧太后が陰をもって陽の政を専らにしていた。
  • 元初四年六月、郡国三で盂杯・鶏卵大の雹が降り六畜を殺した。延光元年四月、郡国二十一で鶏卵大の雹が降り作物が損なわれた。当時安帝は讒言を信じ無実の死者が多かった。三年にも鶏卵大の雹(順帝永建三年・六年にも郡国十二での雹害の記録がある)。
  • 桓帝延熹四年五月、京都で鶏卵大の雹が降った。当時桓帝は誅殺が過度で小人を寵していた。七年五月にも京都で雹。当時皇后鄧氏が僭侈驕恣を極め、翌年廃されて憂死しその一族は誅された。
  • 霊帝建寧二年・四年、光和四年、雹の記録(光和四年は常侍・黄門が権を用いていた時期)。中平二年四月にも雹で作物が損なわれた。
  • 献帝初平四年六月、右扶風で斗ほどの大きさの雹が降り人を殺した。これまでで最大の雹害とされ、当時天下は潰乱していた。

冬雷の記録

  • 和帝元興元年冬十一月、郡国四で冬雷。当時皇子が数人夭折し民間に隠されていた。この年和帝が崩じ、生後百余日の殤帝が立てられたが、その兄(劉勝)も病があり平原王に封ぜられたのち夭折し嗣子がなかった。
  • 殤帝延平元年九月、陳留で雷とともに石が四つ落ちた。安帝永初六年・七年、元初元年・三年・四年・六年、永寧元年、建光元年と、たびたび郡国数カ所で冬雷が記録された。延光四年、郡国十九で冬雷。当時太后(鄧太后)が摂政し、太后崩後は阿母王聖・皇后の兄閻顕兄弟が権勢を握り、安帝は親政せず寛仁に任せて臣下に委ねていた。
  • 桓帝建和三年六月、憲陵の寝屋に雷が落ちた。前年に梁太后が兄梁冀の言に従い李固・杜喬を誣殺していた。
  • 霊帝熹平六年冬、東萊で大雷。中平四年十二月晦、雨とともに大雷電・雹。献帝初平三年・四年、無雲のまま雷が鳴った。

山鳴の記録

  • 建安七・八年頃、長沙醴陵県の大山が牛の鳴くような音を数年にわたり発し続け、のち豫章の賊が醴陵県を攻め落とし吏民を殺略した。干宝はこれを、当時曹操が河北で二袁と争い、孫呉が江外に基を創め、劉表が襄陽で乱衆を阻み荊州が戦乱の中心となったこと(曹操が南皮で袁譚を破り、遼東で袁尚を走らせ、呉が黄祖を捕らえ、劉表が死に曹操が荊州を略し、赤壁で敗れ、天下が三分される過程)と結び付けて論じる。

魚孽の記録

  • 霊帝熹平二年、東萊の海に長さ八九丈・高さ二丈余りの大魚が二匹現れた。翌年、中山王暢・任城王博がともに薨じた。京房『易伝』に「海に巨魚出づるは、邪人進み賢人疏んぜらる兆」とある。

蝗の記録

  • 和帝永元四年、蝗害(建武二十二年・二十三年・二十八年・二十九年・三十年・三十一年、中元元年、永平四年・十五年にもたびたび大規模な蝗害の記録がある。永平十五年には泰山から起こり兗・豫に広がり、鍾離意が北宮の造営を諫めた記録、数年後に豫章で蝗害により飢死者が県ごとに千百人に及んだ記録がある)。
  • 永元八年・九年、河内・陳留・京都で蝗害。当時西羌がたびたび反乱し北軍五校を将軍に率いさせ征討していた。
  • 安帝永初四年・五年・六年・七年、元初元年・二年、延光元年と、たびたび郡国で蝗害が続いた。京房占には「蝗が四起するのは国に邪人が多く朝廷に忠臣がなく、虫が民と食を争う兆であり、有道の者を挙用すれば災いが消える」とある。
  • 順帝永建五年、郡国十二で蝗害。鮮卑が朔方を侵していた時期。永和元年秋、偃師で蝗害。前年冬に烏桓が沙南を侵していた時期。
  • 桓帝永興元年、郡国三十二で蝗害。梁冀が権を執り無謀に貪虐をふるっていた時期。永興二年・永寿三年・延熹元年にも京都で蝗害。
  • 霊帝熹平六年夏、七州で蝗害。前後三十余度鮮卑が塞を犯し、護烏桓校尉夏育・中郎将田晏・臧旻が三道から鮮卑を討ったが功なく大司農の財用が不足し郡国から重く徴収した。
  • 光和元年、詔で連年の蝗害の原因を問われた蔡邕は、京房『易伝』の「大いなる作事を時ならずして行えば天が蝗虫の災いを降す」との説と、河図秘徴篇の「帝貪なれば政暴にして吏酷、蝗虫が来る」との説を引き、当時百官が私に上納して西園の府に納めていたことを指摘した。
  • 献帝興平元年夏、大蝗。天下大乱の時期であった。建安二年五月にも蝗害があった。